「生き残る」「勝ち残る」ためのビジネス書はもういらない。
「将来、こんな仕事はなくなる」という話がよくありますよね。
まぁ、歴史を振り返ってみても、
ときの流れの中で姿を消していった仕事というのはたくさんあります。
なので、それはある意味仕方ないのだと思います。
けれども、いつもちょっと違和感があるのは、
「これからの時代に、こういう姿勢では勝ち残れない」という類の話です。
まぁ、多くはビジネスの話ですね。
で、その手の本がたくさん書かれているし、売られています。
これは出版業界がそういう本を出すからで、
それはそういう本が売れるからなのですが、
そこから、現代人が何に焦っているのかがよくわかります。
私も本を出そうとして原稿を書いたところ、
出版社の人に「もっとHow Toな感じにしてくれ」と言われました。
でないと、企画会議に通らないそうです。
つまり「売れなさそう」ということですね。
現代人は、生き残ること、勝ち残ることに焦っているのです。
※
気をつけて周囲を見回すと、noteの世界にも、
そういう種類の話はたくさんあります。
これもまた、読者を増やすにはいい内容だからですね。
人々は「生き残る方法」を知りたいのです。
その反動としてこんどは「Well Being」とかマインドフルネス、
禅などが取り上げられるようになっていますよね。
現代社会に翻弄される「心」を正常に戻さなければいけないからです。
話を「生き残り・勝ち残り」に戻しましょう。
私はそういうことを書く人を否定しないし、焦る気持ちもよくわかります。
しかし、ひとつ、考えてみて欲しいのです。
「こうしなきゃ生き残れない」とか、「勝ち残れない」と言われたとき、
人は「大変だ!生き残らなきゃ!」と思ってしまいます。
けれど、もしその著者のいう通りにできなかった場合、
あなたは生き残らないのですか?
生き残れなかった場合、あなたはどうなるのですか?
甘んじて死ぬのですか?
「勝ち残る」にしても同じです。あなたは誰と戦い、誰を蹴落として、
「勝者」という椅子に座ろうというのですか?
多くの人は、満足に生きてければいいだけで、
他者を蹴落として勝者になろうってわけじゃない、と思うでしょう。
生きるために仕方ないのだ、と。
しかし、果たしてそうでしょうか?
※
こういう例えはどうでしょうか。
よく「北朝鮮が核ミサイルを撃ってくるかもしれない!」
という人がいます。
もちろん可能性は常にゼロではないでしょう。
しかし、その「撃ってくる!」という議論をしているとき、
恐らく脳の中に占めているのは「撃ってくる前」までのことで、
実際に核ミサイルが着弾し、
日本が破壊された後のことは考えていないでしょう。
もう死んでしまっているだろうから?
いやいや、そんなことでは思考を放棄しているだけです。
なぜなら、仮に北朝鮮が日本に核ミサイルを撃ったとしても、
そのあともこの地球は存在し、人類もいるのです。
その世界がどんなものになるのか、想像しなければ、
「本当に撃ってくるかどうか」の議論などできないはずですね。
なぜなら「なんのために撃つのか」がわからないからです。
思考実験してみてください。
もし北朝鮮が日本に核ミサイル攻撃をして日本が壊滅状態になったとき、
もしその後も北朝鮮という国家が存続できていたとしたら、
その国は国際社会から総攻撃を喰らうでしょう。
つまり、日本との戦いに勝ったところで、
もう北朝鮮に未来はないのです。
つまり、北朝鮮が核ミサイルを撃つという決断をするということは、
自分の国も崩壊するということを引き換えにするということです。
そういう思考をちゃんと持っておく必要があります。
※
なんで上記の例を出したか、というと、
「その後もつづくこの世の中」というものを想像しないと、
誤った判断をしてしまうからです。
話を戻しましょう。
勝ち残れなかったら、そのあとはどうなりますか?
生き残れなかったら、死ぬということでしょうか?
これからのビジネスの世界で勝ち残れたなら、
あなたはたくさんの人を敗者にし、死にいたらしめるのですか?
あなたはそれを目指して、
自分は死なず、周りの人を死なすために、
生き残ろうとするのですか?
もっと深めるなら、自分以外の人が敗者となり、死に絶えたなら、
あなたのビジネスは成立するのでしょうか。
生き残った少数の勝者だけで、ビジネスゲームをつづけますか?
誰もいなくなった不毛の地で、
自分だけ生き残って何になりますか?
私が言いたいのは、よく言われる
「生き残る」とか「勝ち残る」という言説は、
それそのものが思考停止の産物だということです。
なぜなら、「生き残った後どうする」が考えられていないからです。
自分だけが生き残るという発想そのものが
持続可能性の欠如を意味しているのであり、
そのような発想から脱却することそのものが、
我々人類に課せられた最大の課題なのです。
我々が考えなければいけないのは「自分が生き残ること」ではなく、
そういう議論そのものがまちがいであるという新しい社会観を持って、
世の中を変えていくことです。
だから私はある意味、楽観視しています。
なぜなら、勝者と敗者ができる社会のしくみは
人類が存続している以上、必ずなくなるからです。
今はその過渡期にあります。
だから前のままの考えの中で未来を思い描くので、
持続可能性と生き残りという矛盾した話が両方出てくるのです。
私は、敗者になる気も、淘汰されて死ぬ気もありませんが、
勝者になるつもりもありません。
ただ、社会を適正なものに変えていく、という意志だけがあります。
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