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人類は「しあわせ」の意味を変えられるか。ピダハンに学ぶ価値転換のゆくえ。

現代の人類が、これからもこの地球上で生きていくために、
いくつかの変化を受け入れなければいけません。

その理由は、現代の人類が
あまりにも多くのエネルギーを消費するのに対して、
地球はひとつしかないからです。

まずここからはっきりさせたいんですね。
夢物語ではなく、科学的な事実の話です。

よく原発推進派の政治家が、
反対派の人々に「理想論ではダメだ、現実を見ろ」と言います。

私から言わせてもらえば、原発を使うということの方が
よほど現実を見ていない夢物語です。
今、電力のために使用した核のゴミは「10万年の保管」が必要です。
もちろん、核による発電など、それほどやりつづけられるものじゃない。
仮に多く見積もってあと100年、原発をつづけたとして、
その時に出た核のゴミが無害化するには、そこから10万年かかる。

ちょっとまってくださいよ、人類の歴史はいったいどれくらいでしょうか?
そう考えるだけで、いかに荒唐無稽か、そして未来世代に対して
無責任かがわかろうというものです。

ともあれ、私たちは今、脱炭素社会への移行を急がなければなりません。
しかしそれは、化石燃料を使う生活から、
別の燃料をエネルギーにする生活にすればいいのか、というと、
そういうことではないのですね。

地球温暖化という、目の前に迫る危機に対処しなくてはなりませんし、
そのためには脱炭素社会を目指さなければなりません。
しかし、別のエネルギーに変えたところで、
人類の暮らし方が今のままなら、
そのエネルギーは一瞬にして朽ちてしまいます。

その理由は、この宇宙を支配する熱力学のふたつの法則によります。
熱力学の第一法則は「エネルギー保存の法則」と言います。
エネルギーを使っても、なくなることはない、という法則です。
ただしこれは、この世にエネルギーが無尽蔵にある、
というわけではありません。

エネルギーは使うと形を変えるけれど、
存在がなくなったわけではないよ、という意味です。
ここと、アインシュタインのあの公式、E=mc2が関係しています。
エネルギー=質量×光速の2乗、という意味ですが、
これはつまりエネルギーとは物質に変換できるし、
その逆に物質はエネルギーに変換できるという意味です。

つまり、エネルギーを使用すると、別の物質なんかに姿を変えるけれど、
この世からなくなったわけじゃないよ、ということですね。
では何に姿を変えたのか、というと、簡単に言えば、
「もう使えないエネルギー」に姿を変えたのです。

人類の営みとは、「まだ使っていないエネルギー」を
「もう使えないエネルギー」に変換している、という出来事なのです。

ここでさらに重要な熱力学の第二法則です。
これは「エントロピー増大の法則」というものです。
エントロピーとは「無秩序さ」というものでして、
一言で言えば、物質は崩壊する方向にしか変化しない、ということです。
様々語弊はありますが、そのように理解してください。

よくある例えとしては、
水槽の中にインクを一滴たらすと、そのインクは拡散してしまいます。
で、拡散したインクが、自然にもとの一滴のインクに戻ることはない。
そういう法則です。わかりますよね。

つまり、崩壊したものはもう戻せない、ということです。
掘り出した鉄鉱石を鉄にしたら、もう鉄鉱石には戻せないし、
掘り出した石油を燃やしたら、もう石油には戻せないということです。

さっきのエネルギーの言い方にあてはめれば、
「まだ使っていないエネルギー」を
「もう使えないエネルギー」に変換したら、
二度と「まだ使っていないエネルギー」には戻せないということです。

え?太陽光発電にすればいいんじゃないの?と思いますか?

ちがうのです。
太陽光パネルをつくるにも膨大なエネルギーが必要だし、
太陽光パネルそのものも、エネルギーの一種なのです。E=mc2ですからね。
太陽光パネルにしてしまったものは、もとの資源には戻せません。
そして永遠に使える太陽光パネルはなく、
いつかは朽ちて二度と使えない藻屑となるわけです。

電気自動車も、発電所も何もかもが、
このルールから逃れることはできないのです。

今は様々な再生技術があるじゃないか、と思いますよね。
確かに、太陽光パネルは分解すればまた
新しい太陽光パネルにできるかも知れません。
しかし、それを実施するのに、また大量のエネルギーと資源が必要です。

ペットボトルを洗えば再利用できますが、
洗うことに必要なエネルギーが消費されるということは、
やはりエントロピーは増大しているのです。

科学的事実が語っていることは、
エネルギーも、人類の永続性も、何もかもが、
時間の流れの中で片道切符なのだということです。

それが現実なのです。

ですから、持続可能性の本質は、
永遠に続けられるサイクルを生み出すということではなく、
(そんなものは存在しないので)
資源の消費スピードをできるだけ下げる、
ゆっくりにするということと同義なのです。
言うなれば延命ですね。

もちろん、リサイクルやサーキュラーエコノミーは、
資源の消費スピードをゆっくりにする効果があるのでやるべきです。
しかし、持続可能性のためにいちばん大切なことは
「エネルギー消費をできるだけしない」ということなのです。

この豊かな消費社会を経験してしまった我々には
ものすごく酷なことですが、それが本質なのです。
我々は暮らし方を変えるしかないのです。

今、経済界で声高に叫ばれていることは、
サステナビリティとウェルビーングの両立です。

その実現のために、
現代を生きる私たちが未来の世代から要求されていることは、
「幸せの価値観を変えること」「何が幸せなのかを変えること」
に他なりません。

今のままの幸せの尺度では、再生可能エネルギーに変えたところで、
すぐに次の危機がやってきてしまうからです。

どうな鉱物を発見しようが、すべては有限であり、
私たちは地球という個室の中に暮らし、
そこから出ることはできない種なのです。

ですから私たちに求められているのは、
「今までの幸せ」を捨て、「新しい幸せ」をみつけることなのです。
では、新しい幸せとはなんでしょうか?

便利なこと、ラクなこと、贅沢なこと、
そういうことを幸せだと思っていた価値観を変えるということです。
しかし、便利ではないこと、苦しいこと、貧乏なことを
幸せだと思うことはできません。
では、何が私たちを「幸せ」だと感じさせてくれるのでしょうか。

その鍵を握るのは「主体性」です。

人間は面倒臭がりの生き物です。
だから主体的に考え、行動しろと言われると、
とても億劫に感じてしまいます。
しかし、実際にそれをやってみると、とても充実感があることを知ります。

人の役に立ったり、人から必要とされたり、
人から感謝されたりすると、人間は喜びや幸せを感じます。
そのような主体的思考と行動をお互いに交換することによって、
互いの存在を満たし合うことに、
これからの「幸せ」は存在するのだと思います。

不便なのではなく、手間をかける。
ラクをするのではなく、丁寧にやる。
時間的な速さに価値を見出すのではなく、過ごし方に視点を置く。
そうやって、自然のスピードに合わせて「ゆっくり生きる」ことです。

お金の価値、人との経済的な比較に目を奪われず、
誰とも比べず、今を大切に、丁寧に生きることだと思います。

アマゾンの奥地に暮らす先住民族に「ピダハン」という人々がいます。

多くの先住民族が西洋の文明的な暮らしや価値観の流入に対して
最終的にはその誘惑に勝てなかったのに対して、
ピダハンの人々はそれに屈せず、頑なに原始生活を貫いているそうです。

なぜか?

相当に頑固なのだ、と思うかも知れません。
しかしその発想は、そもそも私たちの思考が
西洋的な価値観のモノサシに支配されているからであって、
まったく別の思考のモノサシに沿って生きている人々もいるのです。

ピダハンの人々は、実際に自分や身近な人が体験できること以外、
まったく信用しません。
そういうものを信用するという概念がないのです。

だから、誰も直接会ったことのない「神様」など信じません。

また、ピダハンの人々には、抽象的な概念が存在しません。
例えば「色」に名前がないそうです。
「赤」とか「緑」という色の名前は、
私たちにとってはあまりにも当たり前の存在ですが、
じつは信号の「止まれ」と、車のブレーキランプの色が
同じ「赤」であるという認識に立つのは、当たり前ではないのです。

ピダハンにとって、信号の止まれの色は信号の止まれ色であり、
ブレーキランプの色はブレーキランプ色なのです。

抽象的な概念といえば、数字もそうです。
ピダハンには数字がありません。数字は概念ですからね。

数字がないということはすなわち、お金が存在しないということです。
そして「比較」という概念もない。
過ぎ去った過去や、まだ来ていない未来という概念もない。
昨日や、明日が存在せず、ただ「今」だけがあるのです。

そしてピダハン語には「悩み」という言葉がありません。
必要がないのです。心に悩みを生む根源が存在しないからです。

彼らは、いつも笑っていて、とても幸せそうです。
もちろん、心の病になる人はゼロです。

そんな彼らは自分達の暮らしや文化に誇りを持ち、
とても幸せであるからこそ、
その幸せな暮らし方を変えようとは思いません。
文明社会が存在していることは知っていても、
そうしたいとは思わないのです。

文明社会に生きる私たちから見ると、彼らはどう見えるでしょうか?
劣っていますか?

いえ、よく考えてください。彼らは劣っていないのです。
劣っているとか、優れているというのは、比較の概念です。
あるひとつのモノサシの上に
ふたつのものをのせて、それを比べるわけです。

しかし、彼らはそのモノサシを持たないのです。
そして我々と同じモノサシを持たないからこそ、幸せなのです。

気づくべきなのは、もしかして、彼らを劣っていると思ってしまった人は、
そう思うことによって、自ら不幸せになっている可能性がある。
そういうことです。

私たちは皆、一人残らず「幸せになりたい」と思っているはずです。
では、「幸せ」とはいったいなんなのか?
本当に幸せな状態とは、どんな状態なのか?

そのことについて、人類は改めて考え直す必要があるのです。

私たちはピハダンになることはできません。
ピハダンは、私たちと同じモノサシの上にいる
ちがう考えの人たちなのではなく、
ちがうモノサシの上にいる人々なのです。

しかし、彼らの存在からわかることがあります。

私たちが「当たり前」だと思っている「人間の性質」は、
種として生まれ持ったものではなく(そう勘違いしていますが)、
文明社会の中で植え付けられた先入観であって、思い込みです。

ちがう先入観、思い込みの中で生まれ育ちさえすれば、
ピハダンのような価値観になるでしょう。
脳そのものは意志の含まれない記憶・思考装置なのであって、
そこに意志や方向性を組み込むのは環境やその人の経験なのです。

人間はよく、動物たちに対して、脳の容積で「賢さ」という尺度をみます。
賢いことは、そのまま「優れている」という意味のように思えます。
しかし、実際にはそうとは言えないのです。

人間ほど賢くない生き物たちは、自ら環境を破壊して
自分の命を危険にさらしたりしません。
不安な未来を想像して心の病になったりしません。

そう考えると、今我々が「賢さ」と呼んでいる尺度は、
種の保存という観点からすると害悪であって、
種の絶滅までの時間の進み具合を速める力なのかも知れないのです。

人間はしょっちゅう勘違いをします。
人類の歴史はかんちがいの歴史だったと言ってもいいくらいです。
だって、地球を中心に宇宙が回っていると思っていたのですから。

しかし動物たちは勘違いをしません。
そもそも「空が回っている」とも考えませんからね。
ただその動きに同化し、その流れの中に一体となっているのです。

人類の課題がサステナビリティとウェルビーングの両立だと言いましたが、
それはすなわち、今のままの幸せの尺度から、
新しい、まったく別の幸せの尺度に転換できるか、
という問いなのだと思います。

この価値転換こそが、
人類が種のサステナビリティを獲得できるかどうかの
分岐点になるのでしょう。

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