選挙とSNS
最近の選挙では、SNSによる効果が大きく取り上げられていますね。
都知事選での石丸候補、衆院選での国民民主の玉木代表(当時)、
先日の兵庫県知事選での斎藤候補。
そしてアメリカ大統領選のトランプさんもそうでしょうか。
兵庫県知事選では、PR会社の社長さんが
SNS戦略成功の裏話的なものを暴露して大きな問題になっていますが、
実際のところ、斎藤知事に関して言えば、
彼の躍進の鍵を握っていたのはSNS戦略そのものというより、
立花孝志氏の立候補~演説パフォーマンスによるところが
大きかったのではないでしょうか。
少なくとも、PR会社社長が暴露している内容は
PR戦略としては当たり前のことばかりであって、
そこになんらかの別の要因がなければ「火」はつきません。
それが立花氏の存在だったように思うのです。
※
「戦略」と聞くと、
それをやりさえすれば誰でも成功できる普遍的なもの、
という印象を持ってしまいますよね。
けれど、実際にはそんな戦略は存在しません。
すべての戦略は、環境や状況と、「誰がそれをやるのか」という要素が
非常に重要な因子になるのです。
例えば、ロックバンドを題材にした映画を作るとしましょう。
どんなバンドにも物語はあるでしょうから、
映画をつくることそのものはできるはずです。
しかし、その映画がヒットするかどうか、という点では、
どこのどんなバンドの映画をつくっても、というわけにはいきません。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」がヒットした理由は、
クィーンを題材にしていたからに他なりません。
実際のクィーンの物語に
人々が共感していたという土壌があったからこそであって、
この結果をもって「バンドの映画が当たる」とはなりません。
自動車メーカーのホンダにはファンがたくさんいますが、
それは「本田宗一郎」という創業者の物語に共感する人が多いからです。
(もちろん例外はあるでしょうが)
このように、人は「物語」に共感するのであって、
そこでどのような物語が紡がれているのか、ということが
共感を呼べるかどうかの分岐点になるわけですね。
※
例えば、今回の斎藤知事で言えば、
事前にマスコミを中心にしたパワハラ騒動が起こり、
そのために失職したという話の導入があり、
そのあと、先述の立花氏の登場などで、
「マスコミの言うとおりではなかったようだ」ということが広まって、
人々が「おもしろがる」素地ができていったのです。
あらゆるものに物語はありますが、
人々がおもしろがれなければ、共感もヒットもしません。
そして兵庫県知事選では、
有権者たちはまるで選挙戦とリアルタイムで進行する
ドラマの一役を担っているような参加感を持つことができた。
だから多くの人々が彼に一票を投じたわけですね。
共感を軸に置いた同志型のマーケティングが成功した事例でしょう。
有権者は口々に語ります。
「私たちは自分で情報を調べ、本当のことを知ったのだ」と。
「我々はメディアリテラシーが高い」と。
嘘をつくオールドメディアという仮想敵が存在したことも、
人々の心をひとつに団結させた原因となりました。
仮想の敵がいること、
みんなが信じていることではなく、
こっちこそが真実なのだと信じる構造があること、
そんなことが、人々の心に共感と参加意識を芽生えさせます。
※
しかし、兵庫の有権者の皆さんのメディアリテラシーが
本当に高かったのかといえば、
それは残念ながらちがうでしょう。
メディアリテラシーを「真実を嗅ぎ分けるチカラ」と定義すれば、
確かにメディアリテラシーが高いかのような感覚は味わえたでしょう。
しかし、本当のメディアリテラシーとはなにかというと、
それは「情報に右往左往しないチカラ」なのですね。
ネガティブ・ケイパビリティです。
兵庫県の有権者は自分で調べて、
自分で考えた気持ちを味わったわけですが、
全体としてはメディアやネットの情報に右往左往しているので、
やはり今回の斎藤知事の大逆転劇は、
有権者のメディアリテラシーの低さが生み出した現象だと言えます。
本当にメディアリテラシーが高い民衆であるならば、
最初のパワハラ騒動が報道された段階で
「それは本当なのか?」といって静観し、
情報が落ち着くまで精査する姿勢を崩さないはずなのです。
そういう力を民衆が身につける必要があると感じています。
※
それはさておき、私は昨今の選挙とSNSの関係を見ていて、
あることに気づいたのですね。
それは先ほどのロックバンド映画と同じで、
「SNS戦略は、誰がやっても同じではない」ということです。
ここでいう誰がやっても、とは、戦略を立てる人のことではありません。
取り扱われる人物の側のことです。
でも、これは決していい意味ではありません。
いまいちど、SNSを上手に使ったという人の顔ぶれを冷静に見ると、
何か、感じるものがあるのです。
石丸氏、玉木氏、斎藤氏、トランプ氏。
うまく言語化できませんが、心のどこかに感じる「違和感」です。
そうです。SNS発信には向いている人と向いていない人がいる。
向いている人というのは、どこか、意地悪さとか、陰謀論とか、
既存社会の破壊衝動のようなものの受け皿になりやすい人なのです。
ネットの世界とは、善意や寛容さといった人々のプラスな感情よりも、
他者を排斥したり、非難したり、攻撃したりという
人々のマイナスな感情を増幅しやすい性質を持っています。
そのネットの性質をうまく利用できる人もまた、
同じような性質を持つ傾向がある。
彼らは総じて「アタマがいい人」です。
ここでいう「アタマがいい」とは、ココロの温かさとは関係がありません。アタマがいいとは、必ずしも人として素晴らしいという意味ではなく、
ずる賢さも含めて、アタマの回転が速くて、
人々を情報の圧力で煽動する力が強い傾向がある。
声が大きく、独善的で、
自分だけが正しいことを言っているという態度をとる。
人々に、自分で考え、支持している感覚を持たせながらも、
実際には人々から自分で考えるチカラを奪っているのです。
今の社会は、短い言葉でハッキリとものを言う人間が
優れた人間であると判断する傾向があります。
しかしそのような人物が本当に優れていたということを
人類の歴史は証明していません。
むしろその逆のような人こそが、
本当に歴史を変えるような奇跡を起こしてきました。
その代表がネルソン・マンデラでしょう。
先ほど挙げた4人もそうだし、立花氏や、
その他のどのネット上の論客を見ても、
正直に言えば人としての素晴らしさを感じることは
私はありません。
ここまで課題が山積した人類の現状を打破し、
奇跡を起こせるのは、今のSNSで話題に上るような人ではないのでしょう。
最終的に問われるのは、奥深い「人間性」なのだと思います。
SNSで語れる問題の深さはとても浅いのであって、
それに対して我々が抱えるどの問題も、根がとても深い。
そこに親和性がそもそもないのです。
もちろん、政治家は政策をしっかり実行してくれれば、
人柄はどうでもいい、という意見もあるでしょう。
しかし、やはりこの社会は人間が人間とコミュニケーションをとりながら
社会を構成し、毎日を積み重ねているのですから、
「嫌なヤツ」というのは最終的には受け入れられることはないでしょう。
そのときはうまくいっているように見えても、
やがては破綻し、そうなってから多くの人が
「こうなると思っていた」と感じるのです。
人間のそういう感覚は、やはり捨てたものではないと思っています。
※
ここで総論として私が言いたいのは、
ネット戦略を上手に使える人というのは、
長い目で見れば「選ぶべきでない人」である可能性が
結構あるのではないか、という仮説です。
ネット上でどんなに光輝いたとしても、
その光の中に本質はないのではないか。
もちろん、浅い、表層的な部分でのコミュニケーションは
ネットやSNSが得意とするところですから、
そのように割り切れば有用なのだろうとは思いますが、
やはりそこまでなのではないかという気がしています。
ネット戦略が上手ということは、
もしかしたら褒め言葉ではないのかもしれないですね。
あくまでも、今の時点の私見であって、
後々、変わるかもしれませんが。
記録も兼ねて、書き記しておきました。