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日本庶民と野党の弱点は、プロデューサーの重要性を理解できないこと

これから私が書くことは、
日本社会には、政治の面でも経済の面でも、
根本から変革が必要であると思っているという前提で
お読みください。

先日、都知事選への立候補を決めた蓮舫さんの
第一声を聴きに、豪雨の有楽町に行ってきました。

たくさんの立憲民主党の議員たちが集まって、
変わるがわる前座をつとめ、その最終バッターは枝野幸男さんでした。

今、国会は自民党の裏金問題で揺れています。
自民党のお金に関する慣習は腐りきっており、
それが白日に晒された今、政権交代はほぼ起こるでしょう。
そのこと自体は評価されることですし、
社会の存立危機を迎えた日本の未来を考えると
むしろ必ず必要になることです。

しかし、もっとも重要なことは政権交代そのものではありません。
社会を本当に持続可能なカタチに変えることです。
そういう視点を持ったリーダーが政治を引っ張らない限り、
日本が抱えた状況が変わることはないでしょう。

では、例えばいま、野党第一党である立憲民主党が政権を握ったら、
課題山積の今の状況は変わるでしょうか?
都知事が小池百合子さんから蓮舫さんに変わったら、
都民の暮らしは良くなるのでしょうか?

立憲民主党を応援する立場から、
本気で考えてみたいと思います。

有楽町での第一声に話を戻しましょう。
私が気になったのは、
枝野さんが「中抜きの社会構造を変えなければならない」と
叫んでいたこと。
蓮舫さんが、お金の話以外、なにも話さなかったこと。

つまり、この社会がどのような社会になればいいのか、
というビジョン、像について、何も語らなかったことです。

立憲民主党は「まっとうな政治」と言います。
しかし、これって、実は何も言っていないということに
私たちは気づかなければいけません。

これは「自民党がまっとうではない」ということに
100%立脚していて、自分が何者なのかを語っていない。
真面目じゃないやつではなく、真面目なやつに任せて欲しい、
というメッセージでしかないわけですね。

もちろん、今は裏金問題が旬だし、
政権交代はそれが原因で起こるでしょうから、
その件について多少語ることは必須でしょう。

しかし「そんなことはさておき、本当に重要なことは・・・」と、
なぜ立憲でなければいけないのか、
このあと、社会はどうなっていくのか、
それに対してどのようなアクションが必要なのか、ということを
具体的に話していかなければなりません。

その部分が、空洞なのです。

自民党は、資本家やお金を持っている人の味方です。
それに対して立憲野党は「庶民の味方だ」という
立場をとっていることが多い。

しかし、この二項対立こそが旧世代的であるということに、
私たちはそろそろ気づかなければいけません。

そして、次世代を牽引する政治家は、
そのことを私たちに気づかせる存在でなければなりません。

今、自民党とその支持者は利権を貪る側にいるとしましょう。
そしてその構造の中で、比較的安住していられる人が
周辺の消極的な支持者だとしましょう。

それに対して、ことさらに「お金」の話ばかりをするのは、
つまり「お金をこっちによこせ!」という話をするのは、
実は同じ価値観や社会構造の中で、
誰がお金を手にする人なのかを変えろと言っているだけなのです。

しかし、現代社会の諸問題の根源にあるのは、
実は「お金そのもの」であるということを考えるべき時代が来ています。

今まで、歴史の中で起きてきた革命は、
「ルサンチマン(怒り)」を根源にしています。
だから、王政が倒れたら、その元権力者を殺してしまいました。
資本主義を倒したら、資本家たちを殺してしまいました。

これまでの恨みから、
制度的な変革だけでは「気が済まなかった」からです。

しかし、その行き過ぎた行動こそが、
今の権力者たちが変革を恐れるマインドセットを生み出し、
ひいては変革そのものが起きにくい構造をつくる原因になったのです。

これからの持続可能な社会をつくらなければならない私たちは、
これまでの「対立軸」を根拠とした社会構造、価値観そのものに
戦いを挑まなければならないのです。
それは相手ではなく、私たち自身の中に根付いた先入観との戦いです。

例えば、今の野党の政治家たちが叫んでいること、
その声に支持者たちがウンウンと頷いているメッセージを
抽象的に例えてみると、こういうことになります。

「我々はずっと野球をやっているが、
 ずっとアンタたちの攻撃がつづいているじゃないか!
 そろそろチェンジして、攻守交代しろ!」

こういうことです。
しかし、それでは本質的に何も変わっていないのですね。
お金を独り占めする人材が変わるだけのことなのです。
これからの地球に必要なのは、つまり人類が目指すべきは、
そういうことではありません。

「我々はずっと野球をやってきたが、
 そろそろ種目を変えなければならないときだ!」

ということを言わなければいけないのです。
しかもそれは、

「野球ではなく、サッカーに変えるべきだ!」

ではいけないのです。
野球がサッカーに変わっても、手段や方法が変わっただけで
やってることの本質は変わらないからです。
言わなければいけないのは、こういうことです。

「野球ではなく、ヨガに変えるべきだ!」

わかるでしょうか。このニュアンスのちがい。
対立するのではなく、自分と向き合うことに変えるべきなのです。
相手との相対的な関係性を根拠にするのではなく、
自分自身の内面を深めることなのです。

そういうゾーンの話を、政治家もしていかなければならない時代なのです。
それが本当のリーダーです。

話を再び第一声、今度は「中抜き」の話をしましょう。
30年つづいた失われた時代を経て、
日本の庶民は「中抜き」という言葉に敏感になりました。

では、この「中抜き」っていったいなんでしょうか。
野党の人々は庶民を相手にしていますから、
「現場で汗を流している人こそが偉いのだ」と言います。
その人たちがお金を稼ぐべきだと言います。

私もその意見に概ね賛成です。
が、勘違いしてはいけないことがあります。
それは現場で汗を流している人だけが偉いのではない、ということです。

社会というものが高度になっていくと、
どうしても指示系統が必要になります。
そしてその質を高めるためには、
優秀な「プロデューサー」が必要になります。
ここでは「人と人の間にいて調整する人」を
プロデューサーと呼んでいると思ってください。

そういう人は、間で搾取している人、
本来必要ではない人、という印象を庶民は持っています。
しかし、私が実感値として思うのは、
人が思いやりをもって、他者を本当に把握できる人数は
5~6人が限界ではないでしょうか。

例えば10人も部下がいたら、
その上司は部下の気持ちの変化まで把握することは無理でしょう。
ということは、5~6人の現場の人間をとりまとめる管理者が必要であり、
その管理者5~6人をとりまとめる、そのまた上の管理者が必要であり、
その管理者5~6人をとりまとめるさらに上の管理者が必要であり・・・、
というように、社会の規模が大きく、構造が高度になればなるほど、
そういう人間が必要なのです。

そういう人間社会の構造を無視して
「現場が偉い!」という思想は、
語弊を承知で軍に例えるなら、将軍と歩兵だけがいればいい、
という偏った考えと同義なのです。

しかし、現場で手を動かす人は重要であるという前提に立ちつつ、
頭をつかって作戦を立てる中間層の人の存在も同様に重要であり、
彼らは汗を流していないのではなく、
人と人の間に挟まって、たくさんの苦労をしているのです。

そういう「他者視点から想いを巡らせる力」を
一人ひとりが持ち合わせない限り、
参加人数の多い社会では「他者のことはどうでもいい」という
マインドセットが氾濫してくるようになります。

それが今の社会そのものではないですか?

もうひとつ、庶民を相手にした野党の人々が、
ミスリードしていることがあります。
それは「社会から無駄をなくせ」と叫びすぎることです。

端的に言いますが、オリンピックや万博は必要ないかも知れないですが、
それらができるくらいの能力とパワーと才覚は、
政治家を含めた我々には必要です。

何をやるかは別として、やることができる人間であることは必須なのです。
そして、それが感じられないから、野党の人間に「任せる気になれない」のです。

政治を動かす、国を動かすというのは、とてつもなく大きな事業です。
そんな大事を任せられるのは、「大きな人間」なのです。
少なくとも、人々の心の奥底に、そういう先入観がある。
そういう現実がある以上、やはり「大きな人間」にしか
社会の舵取りを任せるわけにはいかないと、
無関心は人々は潜在的に思っているのです。

・・・ということは、政権を担う政治家に求められる像は、
キャンキャン吠えることではない、ということです。

もちろん、議会の中で政権や与党と対峙しているときは
吠える必要があります。
しかし、議会を一歩出たなら、そういう顔ではなく、
「リーダーとして」振る舞う必要があるのです。
偉そうにしろという意味ではありません。
大局的な視点からものを語れ、という意味です。

蓮舫さんに例えてアドバイスするなら、
「都知事になりたかったら、もう今から都知事として過ごすべき」
ということです。

野党が勝てない原因の本質は、
政権運営の「実績がない」ということです。
そしてこればかりは政権運営をすることでしか獲得することができない。
それが万年野党のループを生み出しているわけですね。

では、人々が政権運営をする人に相応しい人物像、人間像に、
今から、今すぐ、なるべきなのです。
その人が政権を運営する姿を想像できるようなイメージを
人々に与える必要があるのです。

国会内ではキャンキャン吠える必要があっても、
そこから出たら、吠えているだけではダメです。
子犬には政権を任せられないからです。

私は小池百合子は好きではないですが、
彼女には「子犬感」がないのです。

そういうことは認めなければならない。
結局人間は「何を言っているか」ではなく
「誰が言っているか」という印象で物事を決めやすいのです。

少なくとも今の日本人はそうです。
その状況も甚だ幼稚ではありますが、今はまだそれが現状なので、
その中でどうしていくのかを考える必要がある。

そして主権者たる庶民は、
社会の中でいかにプロデューサーという人材が重要であるかを
理解していく必要がある。
その存在は社会の知的資産であり、高度化した人間社会を回すために、
必須の存在なのであるということ。
彼らも現場の人間同様に汗を流し、苦しみながら仕事をしているということ。

そして、対峙すべきは対立という構造であり、
その対象は相手の存在ではなく、自分自身の内面なのだということに、
気づいていく必要があるでしょう。

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