【読書記録】きっと石板が立っている
高倉のバイブル、近藤康太郎先生「三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾」の一節だが、高倉はこの意味がいまひとつ分かっていなかった。インターネットには集合知がある。奇想天外は存外そういうところに落ちているのではないか。
しかし、寺田寅彦先生の「知と疑い」を読んで考えを改めた。
もっと早くこの一文に出会いたかった。最近になってやっと寺田寅彦先生の名前を知ったという浅学を恥じ入る。
情報が氾濫するインターネット社会において、調べる、という行為は手軽だ。Googleの検索フォームにキーワードを入力してやればそれらしい情報に行き当たる。Google先生は何でも知っているのだと、そう思っている。
欲しい情報を手軽に得られるのは、欲しい情報が載っているその部分だけを切り取って提供されるからだ。辞書ならばそれで構わないが、Googleに尋ねることは何も言葉の意味ばかりではない。文脈から切り取られた情報の端切れだけが、まるで真実のように提供される。
切り抜かれただけならまだいいかもしれない。まとめサイトやらお役立ちブログやら、どこの誰とも知らない人間がリライトした情報に行き当たってしまったらもうたまったものではない。読者に寄り添った、シンプルで易しい文章。あんなものは知識のほんのさわりをそれらしく見せてくれるだけで、薄めに薄めたカルピスの一滴のようなものだ。
知識にはルーツがある。教科書は誰かの研究の孫引きでしかないし、まとめサイトなんかは玄孫にも値しない。そんなものを引いて、いったい何が分かるというのか。
本当に知りたいと思うなら、そのルーツを辿るべきだ。インターネットに答えは無い。原書を読む。紙の本を読む。そこで得たものが更なる原点へ導いてくれる。
温故知新と言う。故きを温ねることをせずに、新しくてお手軽で目に優しいものばかりを追いかけているから脳が腐るのだ。
世の中には次々と新しいものが生まれているが、それらはすべて古いものの孫引きで、オマージュで、トリビュートなのかもしれない。「ゲゲゲの謎」を観ただけでゲゲゲの鬼太郎を語れないように、知りたければ原点を参照しなければならない。水木しげるの作品を読み、水木しげるの思考に影響を与えた本を読み、歴史を知らなければ知ったことにはならない。或いはそれでも足りない。
たかだか数十年生きただけの高倉が、何を知っている筈もない。何も知らないし分からない。知っていると思っていることは、何も知れないが故に知っていると誤認しているだけなのかもしれない。一生かけたって、何も分からないまま死んでいくかもしれない。
それでも、知ろうとすることが肝心なのだ。知らないことを知り、知識の根を掘り続ける。その先にこそ、私が知りたいことがきっとある。
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