知ってほしい背番号「1」の努力~福留選手引退で思い返すこと~
先週金曜日にバンテリンドームで福留孝介選手の引退試合を見てきました。
たまたまいただいたチケットでしたが、三連休の初日で巨人戦、福留ラスト試合ということもあって満員御礼。
試合展開は、最後のセレモニーがなかったらみんな途中で帰ったんじゃない?・・・というくらいドラゴンズのボロ負け展開でしたが、最後に「ライト・福留」、そして9回に最終打席が見られて、21世紀ドラゴンズを代表するスーパースターの最後の姿に、ファンは大喜びでした。
印象に残った福留選手の言葉
試合終了後は引退セレモニーで、まさかのシカゴカブスにいる鈴木誠也選手からもビデオメッセージがあったり、ビデオメッセージに出ていた、元阪神の鳥谷敬氏と、ドラフト同期の岩瀬氏が花束持って現れたり、ちょっとしたサプライズがありました。
その後の福留選手本人のラストメッセージで印象的な話がありました。
史上初の7球団指名のドラフトで近鉄からの1位指名を蹴って社会人野球に進み、念願のドラゴンズに入った福留選手。
まさか後年、その当時近鉄の監督をしていた佐々木恭介氏が中日ドラゴンズの打撃コーチとなり、その「佐々木コーチと一緒に打撃改造をした」という話が福留選手の中で印象に残っているエピソードなんだと。
そこで、三冠王目前だった巨人の松井選手との首位打者争いに勝ち、
「ようやくプロの世界でやっていける」
と思ったそうです。
たしかに「大型ショート」として入ってきたものの、守備は入団当初から不安視され、打順も固定されていませんでしたが、首位打者になったときは「3番ライト福留」として全試合出場をしたわけですし、だからこそ、「これで一人前のプロ野球選手になれた」と思ったのでしょう。
もちろん、そこに満足することなく、とにかくバットを振り込み(一日3,000スイング!を課していたとか)、朝起きるとき手がバットを握った状態のまま固まっていたとか、そんな話も。
たしかに、中日ドラゴンズの元監督である落合博満氏にも、かつてバットのスイングをずっとし続けてバットから指が離せなくなったので、陰で見ていた稲尾監督がゆっくりはがしてくれた、なんてエピソードがありますが、それだけ、人間の「限界」を超えた習練を積み重ねてきたということでしょうね。
つねに「1番」であろうとした男
この話を聞いて、私がかつて、ナゴヤドームの警備員のバイトをしていた時のことを思い出しました。
ナゴヤドームは1階レベルがいわゆる「グラウンド」「ベンチ」になっていて、客席の下はブルペンやロッカー、球団事務所、食事スペース、監督室、トレーニングルームなどがあるのですが、そこにつながる通路の先に、選手用の駐車場があります。
その近辺にいたり、関係者入口の前で警備していると、車から降りた私服の選手がロッカーに向かう姿をよく見るわけですが、とにかく来るのが一番早かったのが、福留選手と荒木選手で、たいていこの二人の、どちらかという印象でした(その後に井端選手)。
彼らは当時若手とはいえレギュラーでしたが、
一番試合に出ている人が、一番早く来て一番長く練習していたのです。
(なんなら、最後まで残って打撃練習していることもあった)
どれだけ「貪欲」だったかがよくわかります。
福留選手といえば、札幌ドームのこけら落としの試合で、
をしたことでも有名ですが、これも、「1番になろう」という気持ちの強さの表れでしょう。
よく、ドラゴンズみたいな地方球団の古参ファンやOBは「若手を使え」と言いがちです。
しかし、福留らの姿を見ると、結局、才能の大小もあったかもしれないけど、それ以上に、彼らを追い落とすほど練習した選手がいなかったというのが現実なんじゃないかと思います。
(森野選手が落合元監督に、病院送りにされるノックをされたのなんてまさに、練習してないからレギュラーがとれないんだということの裏返しみたいなエピソードです)
そんな福留選手の猛練習をさせたのは、「首位打者になってやっとプロの世界でやっていけると思った」という、とても高い目的意識ですね。
首位打者って言うのは、基本的にそのリーグでたった一人しかなれません。
ただただプロ野球選手になって活躍するだけじゃなく、本当の第一線でしのぎを削るような選手こそがプロ野球選手なんだ、という強い目的意識を持っていたということです。
それがあるから、今の現状に満足せず、「もっと」「もっと」と練習に励むわけで、その結果、(同級生の荒木選手と共に)誰よりも早く球場に来ていただけなんです。
他の誰のためでもない、自分の理想像のためですよね。
その結果として、荒木選手と共に、2000安打以上の実績を残し、20年以上という長い期間現役でいられたわけです。
「福留を見習え!」ではなく・・・
かといって、じゃぁ、簡単に
「福留を見習え!」
といえば、福留のような活躍ができるかと言ったらそんなことはありません。
なにせ、野球のエリート中のエリートであるプロ野球の1軍選手の中でも、同じようにできない選手の方が多いわけですから、並大抵の人では、同じ結果を残すことはできないでしょう。
才能も必要でしょうし、それを活かすための努力は、もっと必要でしょう。
それでも、だからといって、現状に満足してしまったら、成長は止まってしまいます。
福留選手が活躍できたのは、野球に対して常に真摯に向き合ってきたからです。
ありていに言えば、
「野球が好きだった」
ということに尽きると思います。
だから、努力は努力ではなく、自分が「こうなりたい」「こうしたい」という、自分の中のビジョンに従って行動した結果の努力をしてきただけ。
福留選手は、去りゆく際、ドラゴンズの若手に向けて、こんなメッセージを出しています。
成功の陰に努力があり、努力を生み出す己のビジョンがある。そして、それを支えるのは、あくなき情熱。
ある部分では、それだけ人生を捧げられるモノと出逢った、ということでしょうし、大変なことも多いだろうけど、その分、多くの人に愛され、必要とされるという「幸せ」に包まれた野球人生と言えます。
(本記事は鳥羽見寺子屋ブログの内容をnote向けに再構成しました)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?