門掃きのポテンシャル
早朝の庭先、玄関前、あるいは路上にて。門掃きのついでに始まった井戸端会議なのか、井戸端会議をしたくて門掃きをしているのかはわからないけれど、とりあえず朝からいくつかのグループが井戸端会議をくり広げている。そんな光景を横目に入れながらロードバイクを走らせるのがぼくである。
ほうきを片手に持ちながら、あるいは両手に抱えながら話し込む人々。ここではあえて「おばちゃんたち」と呼ぶことにするが、おばちゃんたちがくり広げている会話の中身を想像すると、ぼく的にはそこそこ怖い。
勝手な先入観に支配されていることも問題だし、すべてを自分に引きつけて考える過剰な被害者意識も問題だが、朝からほうきを手にしたおばちゃんたちが集まって話す話題なんておそらく、「あそこに引っ越してきた新しい人、また深夜にゴミ出ししてたわよ」とか、「あそこに引っ越してきた新しい人、あいさつさえロクにできないわよ」とかだと思ってしまう。あるいはカラスの話題や地蔵盆の話題、たまには園芸の話なども入り込むだろうが、せまい町内なわけで、同じ町内の「誰か」にまつわるうわさ話がきっと9割は占めるだろうというのがぼくの思い込みである。
自分もターゲットかもしれない……。そう想像するとそこそこ怖くなってしまうのだ。
だが当然ながら、それら各井戸端会議の内容まではわからない。
ロードバイクで走り去るぼくの「おはようございます!」に対して、笑顔であいさつは返してくれるものの、直後には「あの人知ってる?夜8時を過ぎても大きい音出してるらしいわよ」などとシェアされている可能性がある。
とはいえ真実がわからないのに、勝手な想像で自分を主役・他人を悪役に仕立て上げるのはいかがなものか、とも思う。なんでもかんでも性悪説ではなくて、たまには性善説に立ってみようではないか。
すると浮かび上がってくるのがこんな会話内容だ。
あんたさんの使ってはるほうきって、棕櫚の本鬼毛箒でおまんな?
ええもん使ってはるなぁ。使い心地はどうでっか?
全然あり得る話。
だっておばちゃんたちの会話のきっかけは「門掃き」。基本的なコミュニケーションツールは「ほうき」である。そりゃあ毎朝アスファルトを掃き続けていれば、ほうきの経年劣化も激しいに違いない。だから「もっといいほうきが欲しい」と思うのは自然な物欲だと思う。
でも「ほうき」のクオリティなんてどうでもよくて、あくまでも井戸端会議がメイン。本心「門掃き」はポーズに過ぎず、「ほうき」はお飾りに過ぎないと思っているおばちゃんもいることだろう。
あるいは単に世間から「いい人と思われたい」。京都人の慣習に従って毎朝それとなく「門掃き」をしていれば、したフリをしていれば、町内フローラにおいてきっと「いい人」とは認定される。生きやすくなる。打算的な考えから門掃きを実践しているおばちゃんもいるかもしれない。
このように当初は「ほうき」の素材やデザインに無関心だった人でも、だんだんと回を重ねていくごとに「ほうき」のある環境が日常となりながら、まわりの人も「同じ町内」のほか「ほうき」というつながりもあるわけで、少なからず「ほうき」への関心が高まってくる。
やがては、「いいほうき」を使っているほうが、会話も広がって、結果いいこと尽くめであることに気がつく。
シュロのほうきはほんまに使いやすくて、長持ちもして、いいどすえ。
あんたはんが仰るように、これはシュロの本鬼毛箒。一度使うたら、もう他のもんは使えまへんわ笑
こんなセリフを、実感まじえて言えるようなら、もはや町内を掌握したようなものだろう。
「門掃き」からでも権力は生まれる。それなら「いいほうき」を買って、休日たまにでも掃いてみようではないか。