【サラリーマン生活回顧③】昭和のチャラ男、いきなり大黒柱になる
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営業職に転属となり、会社からあてがわれた煙草臭い営業車を乗り回して客先訪問のルーティンをこなすようになって1年ほどした頃、事件が起きた。
親父が亡くなってしまったのである。
もとより大酒飲みで肝臓の具合がよろしくないのでしばらく入院加療しましょうということになり、さっき見舞いに行って「じゃ、また来る」と別れたばかりなのにその後急に大吐血して果てたのだという。
大正生まれ、軍隊経験もある親父は当時としては晩婚で、私が生まれた時は36歳になっていた。
自営業を営んでいたため、私が小さい頃から家にいるのが当たり前の人だったのだが昼間は仕事に没頭しており、会話するのは晩飯どきくらい。
ただ前述の通り大酒飲みだったので酒が進むにつれ昼間とは打って変わって饒舌に話題を提供していた。
話の中身は殆ど軍隊の頃の話。「横須賀で零戦の整備をしていた」「赤城(空母)に乗った」という武勇伝から「空襲でやられた同僚の飛び出した腸を夢中で戻した」「敵機から逃げるにはどうするか」などというテーマもあったが、これらを一気に喋り上げてそのまま20時頃寝てしまうのだ。
職人であった親父は私を後継にしたかったとは思うが、職種がハンコ屋という字が上手くないと出来ない(今ではコンピュータで掘れるが当時は手書き、手彫りが当たり前だった)仕事だったのでその頃主流であった丸文字を書く私の文字センスに絶望感を抱いていたに違いない。
「お前の字は癖があるから家業には向いていない。これからは大学を出て安定した収入が得られるサラリーマンになった方が良い、ただしウチは貧乏だから大学の学費は出してやらん。行くなら自分で稼いで行け。」と我が息子の進路選択をどんどん圧迫してゆくのであった。
ところが奨学金という制度を知り、なんとか大学に入ってしまった私を見て若干酒量も増えていった親父は、今度は「サラリーマンは60歳まで働けばいいが俺は一生働かなくてはならん」と寂しげに愚痴るのであった。
そんな親父の訃報、享年61歳
見事な定年退職じゃないか。
葬式にはこれまで勤務した工場の方、これから世話になる営業の方など会社関係の方が多く来てくださり、うちの町内としては大規模な葬式となった。これが会社なのかと思い知ると同時に、残された母親を食わせていくため安直に会社を辞めることはできない、一気に(5歳下の妹入れて3人しかいないが)我が家の大黒柱になってしまったぞと覚悟せざるを得ないのだった。