【コラム】ふと、思ったこと③〜公教育の人事評価と人材確保
◇6/14(火)の文科大臣の発言
だ、そうだ。
私教育界に身を置く私からすると、当たり前のことでもある。
指導力がない人間はなんだかんだで淘汰される。特に大学受験業界はスーパーサバイバルタイムに突入した感がある。メインを伸ばすか、サブを作るか、撤退するか、、という選択が求められる時代。
ただし、中高受験ではそうでもないとも言える。だから、実は大した実績も無いのに教材をSNSで配布して満足していたり、元大手塾の校舎責任者という現在は「なんでも無い人」がSNS大きな顔をできたりもするのだろう。いや、そういう人は淘汰された先でSNSという楽園を見つけたと言うべきか。(それぐらい、そういう肩書きの人には気をつけるべき。)
しかし、公教育はかくあるべきなのか。
◇公教育の人材と客観的評価のミスマッチ
学校の先生にももちろん何らかの競争はあるのだろう。校長先生や教頭先生は各校で一人である。そこに到るために一般企業並の出世競争があることは組織であるが故に当然だとも思う。そうなりたくなければ金八先生よろしく生涯一教師を志向するのか。
しかし、学校の先生が「辞めさせられる」ような競争が想定されるべきだろうか。その競争のために成果をすべて数値化、客観化して判断することに意味はあるのだろうか。
もちろん、進学校の先生ならばわかりやすく進学実績等で評価もできるだろう。(ただこれも、生徒の成績を上げるために模試の問題をほぼリークすると言った、本末転倒な事態は想定される。)
しかし、そうではない学校の場合はどうなのか。模試の数値では測れない人間としての最低限のマナーのようなものを教えることである種の社会のセーフティネットとして機能している学校もあるはずだ。「あるはず」と言うのは結局私は私教育界にて高校生の「上澄み」に相当する層しか見ていないことを自覚しているからだ。
これについては、そもそもそんな奴が高校に行くことが間違っているという意見もあるだろうが、例えば遅刻ばかりしていた生徒が、3年間掛けて時間厳守の意識を持ち社会に出ていった、という指導ができること、小学校や中学校で教えきれなかったことを高校で教えられたら、それはそれで教育機関としての意味はあるだろうと思えるのだ。
問題は、それを教えた先生はどのような基準の中で評価すればいいのかということで、そんなものの客観的基準は皆目見当がつかないものとなるのだろう。
学校教育はその性質的に客観化し過ぎると必ず何らかの歪みが出てくるものなのだ。
だから、入った後よりも入る前の改革をすべきなのだ。
◇では、どうすべきなのか
ここでの問題の主眼は「質の良い教師を増やすこと」である。
答えは単純で、「公教育に携わる人間の待遇を良くする」こと以外にはない。
手前味噌だが、2008年ごろ、私は教育関係のバイトをしていた。自分で言うのもなんだが、それなりに頭角を現していたので、割と偉い人から社員講師になることを勧められた。しかし、私は教育業界、学校関係の会社を考慮もせず、不動産デベロッパーか広告会社に入るかで悩んだ。いくつか選択肢がある中でやりがい、社会的責任、……と考慮したが、結局教育関係の企業、学校に進まなかった理由の一つは待遇面である。
教育が神聖視され過ぎていて、「お金のために頑張る」ことが薄汚れたことのように考える人間は多いが、結果として優秀な人物は確保できているのだろうか。
能力の高い人間が待遇面に釣られて入ってきて、そこでさらに自分の待遇を良くするために仕事に向き合うことは、現在の教育現場よりもマシな状況を作ることにならないだろうか。
私もその後私教育界にてフリーランスとして様々な待遇のところを経験したが、「教科指導」の一点を見ても、待遇の良いところの方がその平均値は圧倒的に高いと確信している。例外もあったけど。
だから、公教育もそうあるべきなのだ。もっと優秀な人を還流できる業界になるべきなのだ。
これは外資系と国家公務員の関係にも相当するかもしれないが、国の機関はもっと、優秀な新社会人に待遇面でも応えるべきなのだ。
極論、高い給与を貰っていると「それに応えよう」という意識は出てくる。批判を恐れずに言うならば、「好待遇は多くの不満をかき消す」のだ。あくまでも個人的な意見でしかないが。
その意味で、淘汰という名の競争は入る前に起こった方が良いのだ。
ふと、思ったこと。
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