『テヘランでロリータを読む』 感想文
これは『テヘランでロリータを読む』の筆者、アーザル・ナフィーシーの言葉である。
本書を読み終えた暁には、この言葉が彼女から文学へ対する、力強く絶え間ない「賛美」と「信頼」と「慈愛」であることがわかるだろう。
ここでいう「公の世界」と「私的な世界」を繋ぐ「窓」となるのは、紛れもない「文学」であり、「本を読む」という行為である。
彼女はそう信じてやまない。
そんな文学に対する熱い想いが、紡がれる文字に生写しのように現れ、読んでいる我々に本と向き合うことの喜びと有意義を改めて示唆してくれるのだ。
『テヘランでロリータを読む』。
なんと因縁めき、事件性を感じる題名だろう。
実を言うと、本書を開く前の私は「テヘラン」という街にも「ロリータ」という作品にもはっきりとしたイメージを抱けていなかった。
しかしこの、一筋縄ではいかなそうな言葉のカップリングに惹かれ、この本を読もうと決めたのである。
本書は全部で四つのチャプターに分かれている。
『ロリータ』『ギャツビー』『ジェイムズ』『オースティン』。
それぞれのチャプターで名著としての古典と、その作者による哲学が深掘りされている。
それらが軸となり、舞台であるイスラーム世界/文化との照らし合いによって、主題の枠組みが構築されていく。
この構築は主に、「語り手である筆者」対「文学」という限定的な思案というよりは、大学教授として教鞭を執る上で関わる知的好奇心旺盛な生徒たちとの交わり、ぶつかり、交差であり、ひらかれた思考のもとで行われる。
アカデミックに貪欲なやり取りは読んでいて非常に痛快である。
『グレート・ギャツビー』という「本」を裁判にかけるという知性のとらわれの無さには思わず声を上げてしまったものだ。
このように本書の中では、「本」をまさに「人」のように扱っている節がある。
ある思想に対する反抗や慰めの答えとして本が、その中の人物が、根底を流れる作者の哲学が、引用される。
それは我々に改めて、古典の持つ普遍性と真実性を実感させる。
引用におけるナフィーシーの手腕は凄まじく、それぞれの引用が絶妙な量と長さで、最適な場面に散りばめられている。
その様はまるで洋菓子店できれいに等分されたショートケーキをショーウィンドウ越しに眺めているような高揚を生む。
ラグジュアリーでありながらも自然体な言葉の数々。
私はそれに感激し、言及されている作品全てを手に入れたい衝動に駆られた。
「ある作品を読みながら、ある作品を読む」といった、この異色な読書体験は、脳内に物語の地層を蓄積させ、さらなる読書欲を刺激するのだった。
そして何よりも、豊かなウィットで踊り明かす言葉たちがあまりに魅力的で、ありったけの賛美を与えたくなるのだ。
筆者の芳醇な語彙と、ある種素直で疑いを知らない感受性は、登場人物の魅力を際立たせる。
とりわけ外見の描写が綿密である点が印象深い。
ヴェールに包まれた女性たちの目つき、男性を象徴する髭の生え方、会話の際の眉毛、時にはほくろの位置までも教えてくれる。
この写実性の高さが実際の人間らしさを生み、登場人物の存在感を高める。
筆者によって語られる人物は、それぞれがそれぞれの温度や質感を持って脳内に登場し、物語を行き来するのだ。
特に私のお気に入りは「私の魔術師」だ。
彼の終わりない豊かな知識が、むやみやたらに他人を踏み込ませない理性を働かせ、「いやでも目立つ」その性質を気にも留めず、常に人生の翻弄から逸脱しようとしている無茶な生き様が、非常に不憫でセクシーなのである。
人間性についつい前のめりになってしまう。そんな無邪気さもこの作品にはある。
だが、このような喜びも束の間、隣国からの空襲や風紀委員による殺人。革命派による女性差別、女性蔑視の数々。
ここはあらゆる絶望を内包したイラン・イスラーム国であることを思い出す。
あまりにも生々しく衝撃的な国内部の姿は、心の中の良心を薙ぎ倒し、世界のだだっ広さと己の小ささを私に知らしめる。
少し前に反スカーフの姿勢を見せたイランの少女が殺された。
彼女に共鳴し、デモに参加した少女数名が、この記述通りの理由でレイプされ、射殺された。
知った当時は半信半疑で、夢遊しているようにはっきりと認識できずにいた事実が思い出された。
こんなことが本当に、本当の本当にこの地球上で起こっているのか。
事実を飲み込めず、大部分を消化しきれずにいた出来事に対し、これは紛れもない事実で、この世には十代の少女が不当な眼差しに晒され、無理やり犯され、挙句のあてに殺される世界がある、というやるせなさに確固たる判を押されてしまった。
女性であるだけで殺される世界があっていいのか。
女性でなくても、何か特定の性質を持っているというだけで人が殺されるような世界があっていいのか。
いいわけがないだろ。
いいわけがないだろ、と繰り返し思う。
女性の潔白が処女であるか、そうでないかの選択肢で完結してしまう早道な発想にも落ち込む。
真意がどうであれ、女性への身体的・精神的侮辱が、男性の性欲解消と結びついてしまっていることに、憤りを覚えるし、心の拠り所をなくす。
女性の価値を“男性の半分“として扱いながら、異常なほどの、何か怪物を見るような眼差しを女性に送るイラン・イスラーム国。
「信ずる」ということの後へ引けなさを思い知る。
人間社会は大なり小なり「信ずる」ことによる守護と排除の塩梅で成り立っていて、それが社会の成立にとって最も単純であると思うから難しい。
私たちのカレーにはじゃがいもが必要で、生魚が不必要なように。
私もあなたも誰かにとっては「最高」で、誰かにとっては「最悪」であるように。
人間はすべてを内包することはできない。
人間の良心が均等であることは等しく難しい。
だからこそどう生きていくべきか。
永遠と考え続けるのである。
終わりのない哲学。
哲学には終わりがない。
我々に存在する宇宙────。
────ここまで好き勝手、あっちこっち回りながら感想を述べてきてしまったが、最後のまとめに差し掛かろうと思う。
私が言いたいことはただ一つ。
この本はとてもいい本だ。ということである。
なぜなら、感情の起伏が、躍動が、私の中に大いに現れ、その中を怒りや憎悪といったネガティブなものがぐるぐると渦巻いているからだ。
「嫌な」というとあまりに単一的だが、事実、感情の表層に現れ得る最もシンプルな表現として、「嫌な」気持ちになる作品こそが、(少なからず自分にとっては)いい作品だと思っている。
だからこそ私は、自ら進んで人が不当に死ぬ作品を選んでしまうし、不当な流血の伴う作品を選んでしまう。
『テヘランでロリータを読む』という題名にも、こういった血生臭さを直感していたのだろう。
「ジェイムズが戦争にぞっとすると同時に魅了されていた」*ように、私も何かこういう残虐性にぞっとしながらも目を背けられない、囚われの意識があるように感じる。
ちょうど『ロリータ』への向き合い方に葛藤する女子学生たちのように、芸術作品に対して罪悪感を覚えることもしばしばあった。
そしてそのたびに自分はなんて薄情な人間なのだと思ったりもした。
そんな自己矛盾に対してナフィーシーはこう答えている。
私はこの言葉に救われ、純度百パーセントの共感を示す。
文学は、筆者によって綿密に組み込まれた「完全」状態であり、それは「最悪」な何もかもを含んだ上での「完全」であるのだ。
この隙のない統一空間に、我々は恋焦がれ、胸を熱くする。
不完全な私たちは、完全であることを希求する。
これこそが、我々が文学を愛し、小説を「むさぼり読む」理由なのである。
そして、この『テヘランでロリータを読む』も例外ではない。
文学に精通する筆者の審美眼のもと、整然と完壁に書き綴られたこの物語は、ただ目も当てられない現実としてではなく、大衆にひらかれ、読まれるべき真実としてこの世に存在している。
それはひとえに筆者の文学愛が成立させているものであり、筆者のいつ何時でも文学を内在させる力による必然の結果であることを、本書を読み終えた私は感じずにはいられない。
生きる時代も、場所も文化も、多くの点で異なる人物に対して、ダイレクトな胸の震えを感じる/感じさせる。
これは共感というよりも共鳴に近いのかもしれない。
この共鳴が何者にも侵されず、自由にそこに在り続けることが、文学であり、本を読むことであり、アーザル・ナフィーシーの持つ指針なのである。
いつでもどこでも、世界中の「リアル」を受信できるこの時代において、本を読み、文学に触れるということ。
それは見ず知らずの人間の鼓動を感じ、己の波動を感じるということ。
粛々と激情に触れるということ。
私は、ここ日本で、はるか遠いテヘランに思い馳せながら、人知れずこんな情熱に火を灯したのだった。
※すべての引用は本文中による。