「邂逅と疎外」TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』第2回
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1.「不思議なリズムと音の正体」
──中学2年の夏休み、野球部の練習中に聴こえてきた音楽に思わず聴き惚れた。通っていた中学の野球部の顧問が2年になると変わった。新しい顧問はまだ20代半ばくらいと若く、アメリカ式の練習メニューを取り入れたり、時には練習中もプロ野球選手のように音楽を流していた。そこで今まで聴いたこともなかった不思議な音楽が気になった自分は練習後、顧問の先生へ「さっきの曲を貸してください」とお願いし手渡されたのがRIP SLYMEのアルバム『FIVE』。練習中に聴いていたのはそのアルバムに収録されていた『雑念エンタテイメント』だった。
「初めて聴いたヒップホップの曲は?」なんてメディアで質問されるといつも「RIP SLYMEの『雑念エンタテイメント』ですね」と答えている。だが、よくよく考えるとガキの頃に見ていた『ポンキッキーズ』には、スチャダラパーのBoseさんも出演していたから、多少は耳にはしていたのかもしれない。でも、ヒップホップやラップだと認識して聴いたのはRIP SLYMEがはじめてだった。はじめて買ったCDはMr.Children(しかもなぜかミスチルにはめちゃハマって、ライブビデオまで持っていた)で、その後もサザンオールスターズなどの曲は聴いていたが、人生で初めて本格的にハマった音楽。それがヒップホップだった。
『雑念エンターテイメント』RIP SLYME
メジャーシーンではRIP SLYMEとKICK THE CAN CREWが人気を二分するほどの勢いがあった2000年代初頭。中学でもこの2組は人気があった。クラス内では、リップ派とキック派という派閥ができていたほどだった。自分が苦手だったヤツらがキック派だったから、自分はリップが余計に好きになった(その後にKICK THE CAN CREWも大好きになる)。その頃、中学にはホッチャンという友だちができた。
ホッチャンもまたリップが好きだった。ホッチャンは、ヤンキーではないがメンタル的アウトロー。斜に構え、クラスの隅から眺めている。だからこそ、天の邪鬼な性格な自分と気があったのかもしれない(そういえばホッチャンとは高校2年以来会ってない。もしこれを見てたら連絡してね!)。
1.2 さんぴん世代が与えた衝撃
でも、ホッチャンが所属していたグループの奴らとは相性が合わなかった。のちに自分のライブDJを務めてくれることになるDJ yukihILLたちがそこにはいた。yukihILLとは、実家も数メートルしか離れていないが、小学校時代も中学時代も話したことはほぼ皆無。あまり好きになれなかった。もっと正直に言えば苦手なタイプだった。
yukihILLは、ブラックミュージックが大好きなお父さんからブラックミュージックの英才教育を受けて育った。小5でスヌープ・ドッグやマイケル・ジャクソンを聴いていたらしい。自分とホッチャンがリップのことで騒いでいるとある日、yukihILLからホッチャンを通じてLAMP EYEの『証言』、続いてBUDDHA BRANDの『人間発電所』を渡された。
冬場は授業中もジャージの裾にイヤホンを隠し、先生にバレないようにMDプレーヤーから曲をひたすら聴きまくった。
yukihILLとは話さないが、ホッチャンを通じて間接的にヒップホップの情報を入手していた。「1996年にさんぴんキャンプというイベントがあったらしい」「TwigyはMICROPHONE PAGERにいたらしい」などなど。発刊されていた『BLAST』やファッション誌のヒップホップ特集を立ち読みしては情報を得ていた。でも、一番デカかったのは『流派-R』。番組内のコーナー「R-CLASSICS」で紹介されたMICROPHONE PAGERの『Rapperz are Danger』を聴き、衝撃が走り、MICROPHONE PAGERが好きになった。後に自分が『流派-R』に出た時にこのヒストリーと同曲を紹介できたのは感慨深い。もちろん雷やキングギドラ、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDも好きだったな。音楽の世界がどんどん広がり始め、藤原ヒロシさんやコーネリアスなんかも聴くようになっていった。
眼鏡をかけているからかもしれないけど、「RHYMESTER的な文脈が好きでしょ?」とよく聞かれる。当時の自分は言い方は悪いが、ポップと言われていたリップから入った反動や自分にないハードコアなものを求めていた。それは父親がいない反動からか、父性をHIPHOPに求めていたのかもしれない。知れば知るほどRHYMESTERなどのグッドミュージックを遠ざけてしまっていた。でも、RHYMESTERのアルバム『グレーゾーン』をはじめ、タイムリーに聴いて好きだったのもまた嘘偽りのない事実だ。
『Dream』TKda黒ぶち
音楽の世界が広がり始めると、ファッションに興味を持ち始めた。今でも好きなAPEやSupreme。裏原へ買い物に行っても、中学2年の小遣いでは到底買えるわけもない。竹下通りや雑誌の後ろの方のページにある謎の格安通販で売られていた偽物を掴まされたこともあった。
あと自分のトレードマークでもある眼鏡。これも中3の頃に視力が低下し、リップのDJ FUMIYAさんがかけていたから、真似をしたんだ。カラオケすらも恥ずかしくて人前で歌えなかった自分はラッパーの裏でクールにたたずむDJに惹かれ、「いつかDJになりたい」「DJってカッコいいな」と漠然と考えていたから。
1.3「諦めと負の感情」
ここまでの話を聞いて、中学時代はわりと充実していたかのように思うかもしれない。小学生4年頃までの家庭内で辛い立場が一転、中学に入ると家庭は安定した。その反面、中学校では諦めと負の感情の連続だった。疎外感や孤独感が一層増したんだ。辛い記憶ばかりが蘇る。
自分は春日部駅の西口に住みつつも、ギリギリの学区で東口の小学校へ通っていたことは前にも書いた。中学に上がると、今度は西口の中学に入学することになった。近隣の3つの小学校からの寄せ集め。生徒たちの大半を1つの小学校が占め、残りを後の2校から入学する。自分は残りの2校出身だった。しかもその2校の中でもめちゃ少数、学年で10人くらいしか同じ小学校の人がいなかった。悪ガキ4人組も自分以外は全員東口の中学。だから、友だちもすべて一旦リセットされた。加えて多数を占めていた小学校のコミュニティが出来上がっていた上に、自分が通っていた小学校のノリと違いすぎてまったく馴染めない。
野球部に入部した。しかし多数を占める小学校出身者は野球がうまい奴らばかり。それを見た瞬間、自分はレギュラーになることは無理ゲーだと確信した。もともと運動神経が悪い自分でも一応努力はした。精鋭達へのせめてもの抵抗で考え出したのが、右打ち左打ちのスイッチヒッターになること。夜、マンションの駐車場で素振りをしたり、バッティングセンターへ通った。部活で活躍するために、それくらいの努力はみんなしていたんだと思う。別に鬼のように努力をしたわけでもない。練習をしても上手くならないし、「下手くそ」とバカにされ、先輩にはいじられる。結局、スイッチヒッターにはなれたがレギュラー争いからは音を上げて逃げた。目の前に困難が立ちはだかると逃げてしまう悪い癖が出たんだ。今でも興味がないことを努力するのは苦手だ。
1.4 孤独と疎外の砦
通っていた中学に居場所がなかった自分は、同じ小学校の悪ガキ4人組のひとり、今でも唯一親友と呼べる男であるアヤトと一緒の、つまりは小学校の仲間が通う塾へ入った。中1の時だ。塾は、東口の小学校の仲間と繋がれる唯一の場所だった。
高校受験が近づくと、埼玉県の中学生は大抵北辰テストを受験して、自分の偏差値を把握する。自分の偏差値は、3年間塾へ通ったにもかかわらず目も当てられないほど低かった。春日部からだと、群馬や栃木方面、もしくは東京方面の高校に通う。自分は群馬や栃木方面の高校へは進みたくなかった。すると、運の良いことにその年は自分の偏差値より7ほど上の公立高校が大の苦手だった理科のテストがカットされるという好条件な上に、たまたま定員割れであると知らされる。しかも東京方面。謎のプライドが担保されたからその高校へ進学した。
運動も勉強も苦手、友だち関係もうまくいかなかった中学生活だったが、精神の均衡を保てたのはまたもや中2、3の担任の先生のおかげだった。小学校5、6年の担任と同じように同じ目線を保ちながらも悪いことはしっかりと叱り、親身になって接してくれた。そして出会ったHIPHOPというカルチャー。これは本当に救いだった。
そして進んだ高校で自分の人生は大きく変わっていく。
次回公開予定日は4月12日です。お楽しみに!
謝辞
2回目を迎えた自叙伝。1回目の記事ではさまざまな感想をいただきました。読んでくださった読者の方々には本当に感謝しています。あらためていろんな方々に支えられていることを実感しました。ありがとうございます。次回、3回目からは自分の本格的なラッパーとしての活動がスタートします。来週の公開を楽しみにしてください。そしてチームTK の3人にもあらためて感謝。
2022年4月5日 TKda黒ぶちこと 星 隆行