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【第3話】かつて天才だった私

あけましておめでとうございます。
2021年始まって2ヶ月、皆さんどのようにお過ごしでしょうか。
私のいる宮城県では先日、震度6弱の地震がありました。気付いたことは緊急地震速報が遅すぎるということ。携帯が鳴った時には家中のあらゆるものが倒れてきていました。数日経った今でも余震が続いており、落ち着いて大便もできません。
年明けてすぐの話ですが、帰省する前に洗車でもしようかなとガソリンスタンドにいったら、モップが凍っていて洗車できないという事件がありました。それだけに留まらず、帰省後こっちに帰ってくると蛇口から氷柱が生えているという衝撃の事件まで起こりました。3月も目前に迫っているにも関わらず未だに大雪が降る宮城県。寒さ耐性1の私、泣きそうになりながら毎日過ごしています。
21年初めての投稿ということで冒頭の挨拶長くなってしまいました。申し訳ありません。今回は初めて自分の過去の話を書いてみました。ぜひ最後までご覧下さい。
 

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勉強も運動もできる高身長イケメン。
天から二物も三物も与えられた男。
それが竹田そらである。

小学生の時はまさに負け知らず、天下無双。勉強させても1番、運動させても1番。テストはほとんど100点だったし、徒競走も6年間1着。こんなに堅い馬券はない。サッカーでも東海ナショナルトレセンに選ばれ、三重でテコスの坊主の10番を知らないサッカー少年はいなかった。
中学時代も勢いは衰えず。勉強ではほぼオール5の成績を残し、サッカーでは小学生時代から変わらず県トレセンに選ばれ続けた。さらに身長も3年間で30cm以上伸び、180cm近くの身長という新たな武器まで手に入れた。

しかし、実はここまでは無くはない話である。小学校、中学校時代、勉強も運動もできて自分のことをスーパーマンだと思っていたけど高校で一気に世界が広がると上には上がいることを思い知らされるなんてことはよくある話である。竹田そらが驚異的なのはここからだ。

高校時代。サッカーにより力を入れるべく、拠点を三重から岡山に移した。自分のことを誰も知らない環境。小中学生時代に三重で築き上げてきた実績はなにも通用しない。今ある実力だけで成り上がらなければならない状況で私は早々に国体に選ばれた。まさに、とどまることを知らない状態である。順調に予選を勝ち抜き、中国地方の代表として全国大会に出場した。チームでも2年生から10番を背負い、3年生では全国大会に出場。岡山で学芸館の10番を知らない高校サッカー関係者はいなかった。挙げ句の果てには同志社大学に進学。文武両道の化身といっても過言ではない。
そして大学時代。1年生時から関西1部リーグに出場し得点も記録。3年生からは10番を背負い、関西選抜やリーグの優秀選手にも選出された。もちろん大学もしっかり4年で卒業。最終学歴同志社卒を手にした。

数々の輝かしい過去。エリートコースを辿り、この先何不自由なく暮らせるスペックを手にした。大企業に就職し、そこそこのお金を稼ぎ、休日は妻と子供を連れ外出する。そんなありふれた日常であり、これ以上ない幸せな人生を歩むことが容易に想像された。
決して色褪せることのない栄光から月日は流れ現在。

職なし。金なし。彼女なし。
どうなっとんねんこれ。人生難しすぎるやろ。自分の身になにが起きてるか全然理解できひん。
ちなみに、夢だけあり。
これが1番やばい。ほな夢もない方がいい。大人になってまともな仕事も大した金もないのにまだ夢追ってるやつなんて圧倒的に1番やばい。

親に大金をかけてもらって手に入れた同志社卒を捨て、小金持ちくらいには稼げたであろう安定した人生を捨て、そして今手元になにも残ってない男。
24歳を目前にして当然のように彼女はおらず、それに対してなんの危機感もない。どころか友達すらまともにおらず、男にも女にも人気がない人間。
それが竹田そらである。

親泣いとるわ。
こんなnote書いてることも含めて。

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最後までご覧いただきありがとうございました。
書き終わって現在、悲しい気持ちで一杯です。
勘違いした人間が落ちこぼれ、地の底に沈んでいく様を腹を抱えて笑って欲しいなと思っております。
第3話まできましたが、こんな悲しい気持ちになるなら次書くかわかりません。
涙でもう携帯の画面が見えないので、ここでお別れしたいと思います。
私の心が回復すれば、また次お会いしましょう。
それでは。

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