虎に断りなく虎の威を借る狐と、アイドルのまわりの人たち
首相秘書官による差別発言が問題となっているが、私が気になったのは
当初「秘書官室もみんな反対する」「私の身の回りも反対だ」と言った点について「そういう考えじゃないかなっていう、同世代だからという趣旨で言った」「実際に意見を聞いたわけではない」と釈明したこと。
本当は“秘書官室みんな”反対の意見を口にしていたが、責任を取ってトカゲのシッポになった、という線も無いわけではないが、ここは釈明した通りとして話を進める。
実際に意見を聞いたわけではないのに、みんな(或いは、特定の“他の誰か”)も言っている・思っている、という言い方をする人間は少なくない。そうすることで、自分個人の意見に正当性を持たせようとするやり方だ。
私は中学生の頃に父を亡くしたのだが、それからというもの事あるごとに「お父さんだったら…(何々と言うだろう・何々と思っているだろう)」などと言われてきた。
お父さんじゃなくてお前の意見を言えや、と。
食事の食材を、少しお高い物を買ってきた事に対して「安い物でいいのに」という旨の事を言ったら「お父さんだったら…」と言われた事すらある。私が高い物がいいと贅沢を言ったのならば「お父さんだったら…」も当てはまろうが、全く逆なのだ。もはや自分を正当化するためにお父さんを利用しているだけである。
多感な時期にそういう境遇だった為か、「みんな(或いは他の誰か)も思っている」という言い方に対して敏感になっていると思う。
“わたし”
現在は『巫まろ』として活動する福田花音。このページに辿り着いた人であれば、彼女が作詞家として活動していた時期もある事も御存知であろう。
処女作にして自身のアンジュルム卒業曲となった「わたし」を皮切りに、そこからの約4年間を作詞家として歩んだ。
「未熟半熟トロトロ」「傘をさす先輩」といった秀作もあったが、正直“打率”はあまり良くなかったと個人的には思う。普段の言葉のセンスと作詞家のセンスは必ずしもイコールではないのだな、と感じた。
まず、言葉を詰め込みがちだったこと。それと、テーマが絞り切れず中途半端になりがちだったこと。これは処女作「わたし」の制作法をずっと引きずったからだと思う。
「わたし」を制作する際につんく♂からのアドバイスとして、「アイドルではなくなる事をそのまま表すのではなく、色々な人に当てはまるよう“肩書き”と捉えよう」と言われたそうだ。ゆえに、その後の作品も色々な人に当てはまるようにしなければならないようにと思っていた節がある。
2019年、アンジュルムから和田彩花、勝田里奈、中西香菜と続いて卒業したのに際し、それぞれにソロ曲やフィーチャー曲を作詞した。だが、ファンの評判はあまり芳しくなかった。
ただ、その中には「こんなのメンバーも良いと思ってないだろう」という論調も散見された。実際に意見を聞いたわけでもないのに。
何の断りもない他者の威を借って正当性を得ようとすることのないよう、責任をもって“わたし”の意見を述べたいものである。
そして、私の敬愛する人たちが、威を借る狐たちに惑わされないよう願うばかり。