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【所感】言葉による”写真”の生成の可能性

生成AIで遊ぶ中での最近の気づき。言葉で絵を描くことはできるが,言葉で写真を撮ることができない,ということについて考える。


写真は,おそらくある程度,言葉で説明することができる。しかし,確かに言葉で表現できないものを表現するために撮る…という側面も少なからずある。


生成AIでの画像生成は,描かれている素材やタッチ,場面,構図,仕上げ方等細かい指示を出すことである程度コントロールすることが可能であることがわかってきた。しかし,この細かい指示というのがなかなか難しい。その情景を”鮮明に”言葉にできないことには,指示を出すこともできないのだ。


言葉では”鮮明に”切り取り難い瞬間,のようなものは確かにあるかもしれない。思えば私が現状,instagramに上げ続けている写真はどれも,生成AIで表現することはとても難しいものであろう予感はしている。


ある意味”撮るに値しない場面を切り取ったような写真”。これを本当に言葉にて創り出すことはできないのだろうか,という疑問。そしてもし,そのような写真を生成AIで創り出すことができないならば。そのような写真は言葉で言い表せないものとして,どのような価値を有していると表現できるのだろうか。


結局,まずはどこまでいっても”言葉”に対する理解を深めるところが,写真を考えるにしても大きな課題なのであろうか。

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