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赤本天国① 動物と人間の狭間で―峠哲兵『もぐら少年』を読む―

 まんだらけより2020年に発行された復刻本、峠哲兵『もぐら少年』の特典ペーパーに寄せた批評です。  


<その1 動物と人間>

 愉快なマンガだと思って気楽に読むと痛い目に合う。『もぐら少年』は私が最近読んだマンガの中でも際立って深刻な悲劇です。
 本作は人間に撲殺されたもぐらが人間に化けて仕返しをするという復讐劇です。よくある筋書きですが、そのプロセスに中々しんどいものがある。特にラストシーンにそれがあらわれてます。そのシーンを抜き書きしましょう。

 もぐら少年は、主人公である「ひでちゃん」の通う学校へゆき給食の味噌汁にミミズを入れます。人間に仕返しをするためです。その後教室の外から授業を盗み聞きします。教諭は教室の生徒に向かって話しており、もぐら少年が外で盗み聞きしていることを知りません。

教諭「ねずみのように人間に害を加えるけものを有害獣という…もぐらもまた害獣である」
もぐら少年「えっ!ぼくが害獣だって?」
教「地中にあって小虫などをたべるのはいいが田畑の作物に害をあたえるので人間にとっては害獣である」
も「じゃやっぱり僕は人間の敵なのか…」
 「それではぼくの方がわるかったのか…あの少年たちにバットでなぐられたのもしかたのないことだったのか…ああどうしよう…」
 「給食の時間だぞ…どうしようかな…いまさらぼくには言えない」
小学生「うわ~みみずだ~」

この後、小学生の集団はホウキやバット、カバン、旗を振りかざし「あいつはやっぱりもぐらだ!もぐらなんだ!」「害獣め」と叫びながらもぐら少年を包囲します。そのもぐら少年の最期のセリフは「ぼくが悪かったんだ ぼくはもう逃げも隠れもしないよ」。無抵抗のもぐら少年は撲殺されます。
 もぐら少年は物語の冒頭で「もぐらである」という理由で一度撲殺されたのですから、人間に仕返しするという行為は正当なものです。もう一人の主人公である「ひでちゃん」はもぐら少年を保護しましたが、その他の人間たち…警察や科学者、わんぱく小僧たちはもぐら少年を追い詰めます。もぐら少年の怒りは継続されてしかるべきなのです。しかし、もぐら少年は最終的に抵抗を諦めてしまう。それどころか人間が自分を殺すことに肯定さえするのです。
 なぜそうなったのか。小学校の教諭の「もぐらは人間にとって害獣である」という言葉のせいです。人間の一方的な理屈をもぐら少年は内面化してしまうのです。こんな勝手な理屈を聞く必要なんてないのに。延々と続く警察による追跡と、人間の抑圧に疲れ切っていたのかもしれませんし、半獣半人であることが裏目に出たのかもしれません。いずれにせよもぐら少年は「ゆるして、ゆるして…」と何度も独り言ちながらもぐらの死体に戻るのです。
 主語の大きい話をします。人類が「動物」から突出した存在になってゆくきっかけに動物の「飼い慣らし」があります。動物を暴力的に人間に奉仕させるよう仕向ける一連の行為のことです。具体的には、戦争に駆り出し、出産から管理して最終的に食料や資源に使い、強制労働を課して使用不可になれば処分することです。現在では人間と動物を対照した場合、はっきりとした「人間主権」が存在します。カメルーンの哲学者A.ンベンベは主権について「誰が重要で誰がそうでないか、誰が捨て去りうる者で誰がそうでないかを決定する力である」と述べました。これは教諭の「もぐらは人間にとって害獣である」という発言に端的にあらわれています。この「害獣」という言葉は強力で、もぐらという種のジェノサイドを正当化します。教諭は「田畑の作物に害をあたえる」から「害獣」であると説明していますが、もぐらが「害獣」であるのは、決して田畑を荒らすだけではなく、何よりもぐらが、もぐらだからです。人間には「誰が捨て去りうる者」であるかを恣意的に決定する力があるからです。この「人間主権」は、人間が動物に対して行使する圧倒的な暴力により支えられています。物語冒頭のわんぱく小僧によるもぐらの撲殺にそれがよくあらわれています。
 このマンガの複雑な悲しみの原泉は「もぐら少年」の存在にあります。撲殺されたもぐらが、もぐらのまま人間に復讐すれば人間対動物という構造を保ったまま物語は進行しますから、反抗する動物は英雄として描かれ、そこには勇ましさが感じられるはずです。また「もぐら少年」が人間社会に「同化」すれば物語は違った展開になったはずです。「もぐら少年」は人間に近い肉体を持ち、人語を解して人間社会の理屈を理解できるにも関わらず、決して人間になり得ないというアンビヴァレントな存在としてあらわれているのです。
 他のマンガの話を二つしましょう。二つとも戦中に描かれた大変優れたマンガです。ただそこに描かれた「動物」と「人間」の関わりに注視して批判的に物語を読み解くため、少々悪意があるように感じられるかもしれません。
 田河水泡『蛸の八ちゃん』の主人公は海底にいる蛸です。海底に三匹の蛸がいます。そのうち二匹は、蛸を食べる生物としての人間に恐れを抱いております。一方、主人公である蛸の八ちゃんは「なぜ人間が蛸よりりこうなのだか聞いてみよう」という疑問を抱き、自ら蛸壺に入り漁師に釣り上げられます。そこで八ちゃんは人間社会に「同化」しようと試みるのです。まず八ちゃんは、作者である田河水泡に「蛸より人間のほうがいいから人間にかきなおしてくださいよ」と懇願します。田河には願いを断られますが、そのかわり洋服を譲り受けます。蛸が「服を着る」のです。次に眼鏡を欲しがり賃金労働をします。火の用心の見廻りのバイトです。ここで「火を扱い」ます。その給金で眼鏡を「買い」ます。このようにして八ちゃんは徐々に人間社会へ「同化」してゆくのです。その後、八ちゃんや蛸の子供達は海底資源である珊瑚礁や真珠を収奪して地上の人間に売り払い、その金で学校を建設します。これで八ちゃんは人間社会と対等な蛸の社会を作ることができたのでしょうか?流石は田河水泡、ちょいちょいとその欺瞞性を暴くような挿話を入れ込みます【図1】。

図1田河水泡蛸の八ちゃん

図1:田河水泡『蛸の八ちゃん』。画像は講談社漫画文庫(1976)から複写。オリジナルは1935年7月大日本雄弁会講談社で色がついています。戦後のみどり社(1948)と太平洋文庫(1951)のものは、戦前のものと絵が違う。講談社文庫版は白黒ですがオリジナルとほとんど同じ絵だと思います。間違ってたらすみません。

 小舟を漕いでいる子蛸が釣りをしているおじさんに「こんちわ 釣れますか」と尋ねます。続いて「えさはなんです ちょっと拝見しますよ ははあ いもかいもはうまいですね」と釣りエサを見ます。するとおじさんは「はっはっはっ釣った釣った」と釣竿をひきます。ちょっとした小噺のようですが、いくら蛸が服を着て、言葉を話して人間社会に溶け込んでいるように見えても、蛸対人間の関係性は、被捕食者対捕食者のまま変わらないことを露呈させるグロテスクな一場面です。このページには大きく逸脱しない限りには蛸たちに自由を許すという人間側のスタンスがよく表現されています。『蛸の八ちゃん』は蛸という抑圧された種族が、人間社会に多くの点で妥協/譲歩しながらもネーション・ステートを建設するという物語として読めば以上のような読解になると思います。
 もう一つのマンガは芳賀まさを『南極のペンちゃん』です。こちらも『蛸の八ちゃん』に比肩する名作です。南極からアメリカへ行く途中難破した船に乗っていたペンギンのペンちゃんが太郎くんの家に逃げ込むところから物語は始まります。太郎くんのお父さんは、ペンちゃんをストーブの側で暖まれと誘います。するとペンちゃんは腹をストーブに接触させてしまい火傷してしまいます。ここでまず「火」との接触、「火」との付き合い方をペンちゃんは学ぶのです。次に太郎くんとお父さんに対して「僕は南極生まれのペンちゃんです」と名乗り上げます。それまでお父さんはペンギン鳥、ペンギンと種の名前で呼んでいたのですが、ペンちゃんの名を知ってからは呼び方を改めます。翌日、お父さんはペンちゃんに靴とズボンを与えます。ここでも動物が「服を着る」というイニシエーションが描かれます。人間社会に「同化」したペンちゃんは、太郎の魚釣りに協力します。太郎くんが「なかなか釣れない」とボヤいているのを発見したペンちゃんは密かに水中に潜り、釣り竿にカツオやフグ、イカなどを引っ掛けてまわるのです。その後もペンちゃんはカゴに閉じ込められた伝書鳩をペットとして飼い、ペンギンの標本(多分剥製である)を見ても全く動じない【図2】という心臓の強さを読者に見せつけます。

カラー図2芳賀まさを南極のペンちゃん

 図2:芳賀まさを『南極のペンちゃん』中村書店、1947年版から複写。オリジナルは1940年出版。もう二度と繰り返されぬ幼少期への眼差しが通奏低音のように全篇に流れる傑作。今年読んだマンガの中で一番良かった。本文でディスってすみません。

 物語のラスト、流石のペンちゃんも南極へ帰りたいとホームシックを起こして熱を出します。けれどもオチが物凄く、上野動物園に飼われているペンギン三匹が太郎くんの家にやってきたお陰で、ペンちゃんは元気を取り戻すというものです。曰く「ぼく南極へ行きませんよ もう病気もなほってしまひましたよ」「ね、ペンちゃんなかよく皆んなでゐようよ」とのこと。
 両作品とも動物側から人間に対する強い異議申し立てはありません。人間が許す範囲内で、動物たちは人間社会を謳歌して「同化」してゆきます。いえ、してゆく、というよりもすることを期待されているのです。この人間側に動物が「同化」してゆくことを期待する眼差しは、大東亜共栄圏のスローガンに宿るユートピア性と似た構造であるように思われます。戦前のこれらのノンキな漫画こそが、良くも悪くも児童マンガの故郷のように思われるし、また私の考える理想のマンガに最も近いようでもあり、少し、困ってます。
 さて問題の『もぐら少年』です。「もぐら少年」は上記二作品と違い、名前らしい名前を持っていません。「もぐら少年」が自らを「もぐら少年」と名乗るシーンはこのようなものです。

ひでちゃん「きみはどうしてみみずをたべたり土の中からでたりするの?……人間はそんなことをするもんではないよ」
もぐら少年「ぼくはもぐらだよ」
ひ「もぐらだって?じょうだんじゃないよ きみは人間なんだよ名前はなんて言うの?…」
も「ぼくはもぐら少年だよ」

 『蛸の八ちゃん』は最初から八ちゃんだし、『南極のペンちゃん』も自信をもって「ペンちゃん」であると人間に名乗ります。しかし「もぐら少年」の名乗り方はそれとは異質です。最初の「ぼくはもぐらだよ」という発言は種の名前を述べているだけであり、次の「もぐら少年」の「少年」は、ひでちゃんから「きみは人間なんだ」と言われたことに対応しているだけです。これは名前というよりも、人間側から要請されて自己定義した状態でしかありません。
 上記二作品はいずれも裸のまま人間社会と接触して「服」を主人である人間が下賜するプロセスが描かれますが「もぐら少年」は人間に変身するときにすでに服を着ています。「もぐら少年」は人間から服をもらう必要がないのです。またお湯や風呂、給食のみそ汁といった火に関連するものに遭遇しても驚くことはありません。彼には人間社会に「同化」するためのイニシエーションが何も与えられないのです。「もぐら少年」はいきなり人間に近い存在として転生したがゆえに、共同体に「同化」することもなく、孤立し続けるのです。そのため「もぐら少年」の怒りは物語全編に渡り継続するのです。
 「もぐら少年」と人間社会を媒介する役として、もう一人の主人公のひでちゃんがいます。ですが峠哲兵の冷徹な眼差しはひでちゃんに次のような意地の悪い発言をさせます。ひでちゃんは事あるごとに「人間の姿になったからには人間らしくしなければだめだ 復讐など思いとどまって正しい人間になってはどうだい」「きみならきっと正しい人間になれると思う」と説教します。これは「人間社会に同化しろ」「もぐらであるというアイデンティティを捨てろ」ということです。また、ひでちゃんの言葉には大きな欺瞞があります。たとえひでちゃんがもぐら少年を「正しい人間」であると見なしても、他の人間はそれを認めないということです。
 警察による捕物の途中で、もぐら少年が橋から川へ逃げ込むシーンがあります。後日もぐら少年のボーダーの服が川に浮いていたことから、もぐら少年は死んだものとみなされます(実際は生きているのですが)。そのときの警察や科学者の淡白な態度に、もぐら少年を人間扱いしない様子がよくあらわれています。ひでちゃんはここでも「正しい人間」についてのご高説を述べます。

 ひでちゃん「せっかく正しい人間になろうとしていた もぐら少年をころしたのは おじさんたちです!」
 警察や科学者「うん わるかった…」

 さて、この「わるかった…」は果たしてもぐら少年に対しての言葉でしょうか?どうも私には、ひでちゃんに対しての言葉に思えてなりません。
 物語終盤になるとひでちゃんの行為はエスカレートします。もぐら少年を椅子に縛りあげて「正しい人間」になれと、もぐら少年のもぐら性を否定しろと、自己批判を迫るのです。もぐら少年はひでちゃんに助けてもらったという義理があります。そのため「ひでちゃんにやさしくされると人間に対するぼくの復讐心が消えてしまいそうなんだ」と苦しい胸の内を告白してさえいるのです。そのようなもぐら少年に自己批判を迫るのですから、ひでちゃんも中々大したものです。峠鉄兵の冷徹な人間観察の上に築かれたこの作劇には嘆息します。


<その2 演出について>

 峠哲兵のマンガは以前から読んでいましたが、下北沢古書ビビビの徳川龍之介さんがTwitterに「もぐら少年」書影と内容をアップされたとき驚きました。というのもそれまで読んでいた峠の絵と違ったからです。それは画風というより画面の緊張感と演出です。それ以前に読んでいた峠作品はプランゲ文庫(※1)で読める怪奇もの…『蛇男』や『蜘蛛男』といった作品でした。現在、峠哲兵の作品と言って思い浮かべる人が多いのはこの時1948,9年の怪奇漫画だと思います。これらと比べると「もぐら少年」の絵は端正なものです。怪奇漫画の方は、線を引く速度が速く単行本の刊行点数も多かった頃ではないでしょうか。描き急いでいる印象があります。一方「もぐら少年」の絵はもっとゆっくり慎重にひいている。それも立体感と空間/奥行きが出るように線を選んでいる。たとえば物語冒頭部分、もぐら少年を足から捉えたコマ【図3】はそれ以前描かれなかったアングルです。このポーズは短縮法を用いていて描くのが少し難しいのです。 

カラー図3もぐら少年短縮法

図3:『もぐら少年』より

 一ページを縦に三分割したコマ割りを基本にしたレイアウトは『のらくろ』をはじめ、戦前の児童向けストーリーマンガにもよくみられる形式です。例としてナカムラ絵叢書の芳賀たかし『ぼくらの燈台』を思い起こしてくだされば幸いです。なぜ『ぼくらの燈台』を選ぶかというと、復刻本が創風社から出ていることと、川崎市市民ミュージアムの「漫画資料コレクション」というサイトで無料で読めるからです。


 縦三段割を用いると、横長のコマが必然的に増えます。この横長のコマにどのように人物を配置するかがキモなのです。峠も芳賀も、極力人物の全体像を描こうとします。またいくつかの例外を除いて人物の顔が見えるように描きます。これは表情を見せるためです。人物の立ち姿のシルエットを簡単な図形に還元してみてください。縦長の長方形になるはずです。複数人の人物が立つ絵を横長のコマに配置すると必然的に【図4】のようになります。

図4模式図

図4:著者作図。縦三段割りで全身像を描くマンガでは、頭身が小さい人物が描かれる。それは人物の高さを抑えるためである。横長のコマの中に八頭身の人物の立像を描くのは難しい。このスタイルのマンガを芝居の書き割りみたいだと評する人もいるがもう一度画面をよく見て欲しい。上手い作家の場合、人物の立っている位置を上下に微妙にずらすことで人物と人物の間の空間を演出したり、簡略な背景で奥行きを描いたりと、読者が思っている以上の創意工夫がなされているはずである。

この基本構図を守ったまま、どの程度まで構図に揺さぶりをかけるかが腕の見せ所になるのです。【図5】のコマなんかは上手い構図の例です。上のコマは円を描くように人物を配置しています。

カラー図5もぐら少年コマ例1

図5bもぐら少年コマ例1

図5ab:『もぐら少年』より

 その円は地面の穴の円形に対応しています。中央のコマは面白い構図が取られています。画面右上には上のコマに描かれた人々を背中から描いております。画面右下には手洗い場を大きくトリミングして前景に描いています。この手のスタイルでは、人物より前に物体を前景として描くことも、背中を描くこともあまりありません。ホースは緩やかな弧を描きながらコマの対角線を示唆します。

下のコマは勢いよくホースの水が出るシーンですからホースの形は対角線と重なるように直線的に描かれます。四角形のコマの最長ラインは、対角線ですので、絵を描くとき対角線をどう扱うかは重要な問題なのです。単調なコマ割りでマンガを描くとき、基本型を守ったり、少し逸脱したり、破ったりしながら、コマ運びのリズムを作らないと、画面は退屈なものとなってしまいます。
 このページ【図6】には読者の多くが驚いたと思います。

カラー図6もぐら少年コマ例2

図6bもぐら少年コマ例2

図6ab:『もぐら少年』通常マンガを読むときの読者の視線は右上から左下へと動く。矢印が視線の運動の概略図である。1コマ目の車の運動、2、3コマ目の車の運動、3コマ目のもぐら少年の落下の下降運動はいずれも読者の視線のベクトルと重なっている。

 下の2コマの絵は繋がっています。車の運動にはスピード感があり、コマ内に構成されている空間と運動の方向性が、読者の視線の動きとリンクしています。俗にいう視線誘導です。全てのコマでこういうことをやられると白けますが、単調な縦三段割のレイアウトを繰り返している中にこういうページが入ると効果的です。峠はそういう差し引きがとても上手い。
 芳賀たかし作品など戦前のナカムラ絵叢書の児童マンガと『もぐら少年』の違いとして、読者の読みの時間があります。『ぼくらの燈台』では、物語の見せ場になると、見開きで陰影の深いその一コマだけで鑑賞に耐えうるような絵が描かれます。そのような見開きのコマを、芳賀は読者にゆっくり読んで貰いたがっている気がするのです。というよりもゆっくり読めるようにマンガが設計されているのです。一方『もぐら少年』の方にはスピード感があります。危機的なシーンであるほどコマを細分化してゆき物事の運動を表現しようとする傾向があります。読者がマンガを読む速度をいかにコントロールするかは、作家の腕の見せ所ですが、戦前戦後のマンガにはこのような価値観の相違がある気がします。その点で「もぐら少年」は、手塚治虫以後のモンタージュ/演出を受け継いでいると言えます【図7】。

カラー図7もぐら少年勢いのあるツッコミ

図7:『もぐら少年』スピード感のあるツッコミは戦後のマンガらしさを感じます。右上の大ゴマで俯瞰で捉え、左下のコマでパッとクローズアップするという現在ではありふれた演出も戦後マンガらしさの一因かもしれません。二つのコマのサイズが違う点もポイント。

 つまり『もぐら少年』の演出には、戦後的なモンタージュ感覚と戦前マンガの良心的な部分を引き継いだハイブリット性がある。絵柄に関しても同じことが言えると思います。それは写実的なデッサンとキャラクターの記号的な描写をどのようにして共存させるか、ということです。峠哲兵は簡単な美術解剖学の勉強をしている作家なのではないでしょうか。人体の関節が強調されながらも写実的になり過ぎないキャラクターデザインは見事です。
 これから書くことは、マンガオタクの戯言だと軽く読み流して欲しいのですが…峠哲兵は1949年の夏にナカムラ絵叢書を読み直して研究した気がしてならないのです。戦前から持っていた本があったのかもしれませんし、1948年前後に復刻(再販)された本を再購入されたのかもしれません。私のカンだと、戦前から読んでいて再販も買い直した気がします。何の根拠もありませんが…。
 この解説を書くので、プランゲ文庫にある稲葉四郎/峠哲兵/いなば哲作品を全部読んでみました。すると「もぐら少年」のような絵柄/演出のスタイルは1949年6月1日『怪力太郎大活躍(乾図書出版)』1949年7月25日『木平くん(立山書房)』の二作品あたりから始まっているようです。どうもこの二作品、絵柄と演出にナカムラ絵叢書的なものを感じるのです。
 『怪力太郎大活躍』のあらすじはこのようなもの。主人公の兄弟の隣には漫画家が住んでいます。ある日、マンガ家は次に執筆する本の主人公をポスターサイズの大きな紙に等身大で描きます。その主人公に「怪力太郎」という名前をつけて兄弟にプレゼントします。兄弟が部屋の壁にその絵を貼ると、描かれたキャラクター=怪力太郎が絵の中から出てきます。その怪力太郎と兄弟の交友が愉快に描かれます。
 こんなマンガなのですが物語のラストは物悲しいものがあります。というのも隣のマンガ家が原稿を描き終えると、怪力太郎は絵の中に戻ってしまうのです。マンガ家の原稿は、読者が手にしている『怪力太郎大活躍』そのものであり、読者が本を読み終えると怪力太郎も消えてしまう、というメタフィクショナルな構造になっているのです。
 私が思うに、峠は多分、大城のぼる『愉快な鉄工所』を読み返したのです。複雑に入れ子状になっている物語構造、マンガ家が描いたキャラクターが絵から抜け出す様子などに類似性が感じられます。


 『怪力太郎大活躍』の翌月に出た『木平くん』にも興味深い絵が出てきます。大城のぼる『愉快な鉄工所』には自転車で追いかけっこをする奇妙なコントが挿入されていますが、それと似た絵が描かれているのです【図8】。

カラー図8a大城のぼる「愉快な鐵工所」

図8a:大城のぼる『カンカラ博士の冒険』中村書店(1948)から複写。内容は『愉快な鐡工所』と同じ(多分)。

カラー図8b峠哲兵「木平くん」


図8b:峠哲兵「木平くん」立山書房(1949)から複写

 『木平くん』の筋も簡単に説明しましょう。主人公の少年はピノキオのように動く人形を欲しがります。そこで木彫りで自分の姿に似た人形を作ります。すると木彫人形はピノキオのように動き出して、少年と人形は痛覚を共有することになります。最後に人形は粉々に砕けて少年は落ち込むという悲しい物語です。

 楳図かずおに「ねがい」という怪奇短編があります。少年と、彼が木で作った人形との愛憎を描いた作品ですが、どうも楳図は『木平くん』を読んだことがある気がしてなりません。峠の方の人形は、木で作ったから「木平(もくへい)」、楳図の方は「木目(モクメ)」です。


 峠の三作品(『怪力太郎大活躍』、『木平くん』『もぐら少年』)とナカムラ絵叢書のいくつかの作品を比べると、どうも峠のペシミスティックな面が気になります。ナカムラの本には深い哀感のあるものは多いですが、峠のものはもっと取り返しのつかない悲劇性を感じるのです。子供向け読み物にしてはニヒリズムが過ぎるのです。これが峠の資質なのか、戦後という状況が強いたものなのかはわかりません。『もぐら少年』に関して言えばリーダブルな点も評価されるべきだと思います。1950年の段階でこれだけの演出を成し遂げたのは驚きです。惜しむらくは昭和30年代の劇画流行期に「いなば哲」として数巻ものの長編劇画の名作を生んで欲しかったとです。もしかしたら私が知らないだけで傑作を残しているかもしれませんが…。


<その3 峠哲兵/いなば哲の他の作品>

 「その1」で私が書いたような動物と人間の相克というテーマが大袈裟と思う読者がいらっしゃるかもしれません。また深読みし過ぎと思われる向きもあるかもしれません。「本当に作者がそんなこと考えていたのか?」と問われれば私としては何も言えないのですが、それでもいくつか根拠はあるのです。マンガのタイトルを見るだけでもこのテーマがかなり明確にあらわれていることがわかるはずです。『流星人間』『蜘蛛男』『蛇男』『一寸法師』『石人間』『黒猫博士』『こうもり博士』…多くの作品が人間社会から排除された異形の者たちによる人間への復讐劇になっております。こう同じようなテーマの作品が続くのは、何らかの峠の作品がヒットしたので出版社側からの要請があり量産したと考えるのが自然です。ですが同じテーマの量産は質の低下をもたらす場合と、テーマの純化に繋がる場合があると思います。峠の場合は後者です。貸本時代も内容こそ変わりますが動物や異形のものたちを題名に冠した作品がいくつも見つかります。『蟇太郎推理張』シリーズ、『怪談 蛇女は夜来たる』『蝦蟇女の館』などなど。今回、峠作品を色々と読みましたが、1948年10月25日『蛇男(娯楽社)』は印象的でした。狩猟家の男たちに殺されてきた蛇が人間に化けて復讐するという物語です。蛇男は「もぐら少年」のようなことを言います。

「ふふふ…なぜ蛇男が狩人を狙うかしっているかね」
「おしえてやろうかね数多くの狩猟家によって射殺された動物達を代表しての復讐さ、わかったかね……」

 蛇男は逃走中に降雪に見舞われます。ご存知の通り蛇は寒さに弱い。そして海の中に入り入水自殺をするのです。海の中に蛇が身を投げるシーンはよくあるイメージで、古くは華厳宗祖師絵伝第3巻に、貸本ファンならば水木しげる『花の流れ星』に描かれますが、いずれにせよ反復されてきたイメージの力と申しましょうか、痛ましくも感動的です。しかしその後の博士のセリフが妙です。「あの蛇男の気持はわしにはわかる 自分の罪の償いをするために、あいつは自殺したのじゃ…」と独り言つのです。マンガをサーッと読む分にはあまり引っかかりませんが、こう書き抜きするとなんだか変なセリフです。
 この博士のヴィジュアルは『もぐら少年』に出てくる「せむしのひげおじさん」に大変似ています。そして物語の途中でやはり『もぐら少年』の場合と同じように蛇男は博士の変装をするのです。変装は、相手の社会生活/共同体内の地位を仮の形で奪取することですから、峠が作劇する上で外せないイベントなのでしょう。
 現在、もっとも入手が容易な峠哲兵作品は唐沢俊一編『カルトホラー漫画館 みみずの巻』に収録された、いなば哲の時代劇「足」です【図9】。

図9いなば哲「足」

図9:いなば哲「足」、唐沢俊一編『カルトホラー漫画館 みみずの巻』(1996)から転写。オリジナルは『呪殺やけど人形』セントラル文庫だそうです。多分1960年代前半に出版。

 貸本マンガであるセントラル文庫『呪殺やけど人形』の再録らしいです。ある雨の降る日、二人の浪人が海辺の岩場にいます。一人の男がモリで岩の隙間を刺して蛸を殺します。二匹いたようですが、一匹しか殺せなかったようです。二人はあばら屋で蛸を肴に酒を煽るのですが、ふと外に目をやると荒れた庭に町娘が倒れています。浪人たちは彼女にお酌をさせます。この町娘の正体はもちろん蛸で、殺された蛸は彼女の母親なのです。この町娘は計略を練り、二人の浪人に復讐します。貸本マンガになっても動物と人間の相克/復讐がテーマになっているのです。
 「もぐら少年」も「足」も、「人間主権」の外におり恣意的に殺される者たちの声を拾っている点で共通しています。彼らは社会的な弱者というよりも、そもそもその社会に属せない者たちです。貧しいならば貯蓄により疎外から抜け出せる可能性がありますが、峠の描く動物はいずれも動物であるために「殺される」存在です。可愛らしい絵で描かれていますが、そこで描かれるのは生存をかけた闘争です。そう考えたとき、峠の動物たちが「博士」や「老人」に変装する様は悲愴さを帯びてきます。そのとき動物たちは顔かたちを真似るだけでなく、人間社会の共同体の一員であるという身分を仮初にでも獲得しようとしているのです。
 1947,8年の峠哲兵作品の怪人や動物はたった一人/一匹で、人間に闘いを挑み殺されました。そして人間と怪人/怪物の間には社会的な線引きがありその闘争は単純なものでした。しかし「もぐら少年」が描かれるに至るや、主人公が「もぐら」かつ「人間」であるアンビヴァレントな存在であることに悩むことになり闘争はより困難なものになります。1960年代前半に描かれた「足」は短編ということもありますが、『もぐら少年』に見られた闘争の複雑さはなくなり「仇討ちもの」という言葉に還元可能な単純なものになっております。「足」にはそれ以前の作品との大きな違いがあります。それは動物主人公が人間に打ち勝っている点です。何故それが可能であったかというと「足」の娘(子蛸)は母親を殺した二人の浪人に絞って復讐したからです。以前でしたら、蛸が種族を代表して人間に復讐する話になったはずです。敵を絞ったおかげで復讐を果たせたわけです。政治的に前進して、思想的に後退したのです。
 1958年のB6判ハードカヴァー貸本、いなば哲『素浪人呪文(金竜社)』は秀作です。峠哲兵名義の作品において変装が重要な役割を果たしているとすでに述べましたが、このB6貸本も同じテーマを扱っています。ある素浪人がどこかの藩の殿様と瓜二つで御家騒動に巻き込まれるという話です。どこかで聞いたことのあるような話ですが脚本は丁寧に練られており、いぶし銀のような演出が冴えてます。ただ、これも時代劇によくある物語の定型にかつて峠作品にとって特別な意味付けされていた「変装」という主題が矮小化されており、思想的なダイナミズムは失われています。とはいえ『素浪人呪文』がいいマンガであることには変わりないのですが。
 色々と書きましたが最後に私事を。最初に私が読んだ峠/いなば作品は「足」です。高校生のときにUAライブラリー!やその手の復刻本を買いあさっていたとき『カルトホラー漫画館 みみずの巻』に出会いました。はじめて読んだときに感じたのは、年齢のいっている人が描いたマンガだな、ということです。同時収録された池川伸治のマンガと比べると、大人が描いたものに見えました。というよりも「若さ」がないのです。作品全体から漂う、哀感のある情景、虐げられたもの(蛸)への眼差しからは作者の苦労がにじみ出ていました。また安定していて、かつスタイリッシュで達者な描線にも惹かれました。
 当時から水木しげるの貸本マンガに心酔していた私は、水木と似た世代感覚を感じとりました。水木より少し若いぐらいの人間が描いたマンガなのではないかと思ったのです。現在に至るまで峠哲兵/いなば哲の生年月日を見たことがないので実際はわからないのですが、大きく外れていないと思います(※2)。昭和初期に人格形成をした人間のマンガを読むのが好きです。うまく言葉にいいあらわせませんが独自の哀感があるように思えます。そういえば鳥海やすとにもそういう哀感を感じます。
 この文章では仙花紙単行本と婉曲的な書き方をしてきましたが、要するに現在、戦後「赤本マンガ」と呼ばれているものについての文章です。これは蔑称です。熱心なコレクターの方々は戦後のこの時期のマンガの内容にも価値を認めているはずですが、批評家たちは手塚マンガを除いて内容に立ち入った批評をあまり書いてこなかったように思います。「赤本マンガ」が触れられるのは、マンガ史の流れを説明するときに少し出てくる程度でしょう。それも大雑把なもので、複雑で膨大な量のマンガを前にして取りあえず「赤本マンガ」という名前をつけておけばマンガ史の一つの事象として処理できるといったような、おざなりなものが多いように思えます。つまり個別の作品に対する眼差しがほとんどないということです。勿論そうではない仕事をしている評論家/研究者はいらっしゃいますが少数でしょう。私はマンガを描いておりますから、同業である先人たちの仕事がおざなりな標語と認識でかたずけられることに抵抗があります。
 この時期のマンガの魅力にジャンクさ俗悪さにある点を私は否定しません。純粋に読んで楽しめばいいという態度も一理あると思います。ですが、あえて私は長文で、この「赤本マンガ」を語ってみようと思ったのです。そこを汲み取って頂ければ幸いです。


2020.08.11
川勝徳重

感想とか疑問点あったらTwitterのDMにどうぞ。暇なときなら返信できると思います。

(※1)プランゲ文庫は戦後連合軍占領下において出版物の検閲目的で集められた印刷物から構成されたコレクションです。GHQのプランゲさんが米国メリーランド大学に送ったものが現在では電子化されておりまして、国立国会図書館などの機関で無料で閲覧できます。
(※2)後藤康行「戦時下の漫画にみる逓信事業と戦争」という論文によると『大逓信』1938年10月、1941年1月に峠哲兵の漫画が掲載されているそうです。現物を確認していないのでなんとも言えません。

追記・印刷されてから考え直しましたが、もしかしたら水木しげるより年上かもしれません。戦前の作品をいくつか見たのですが線が達者で、あれを今の高校生の年齢で描けるかな?と思ったからです。正確な生年月日知りたいですね。





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