2018年4月2日 第84号 オジギソウ

 質問されると答える。これをネットでオープンにする。質問を待つ。また回答する。それを発信する。それが情報を発信した気になっている。たしかに、質問されたから答えているわけですが、それ、自分の中から生まれた表現ではないですよね。

質問をしてください、と言っておきながら、つまらない質問ですね。無視します。というようなつぶやきをTwitterで見かけたときは、驚きました。質問を選り好みしているのですね。それには答えたくない、これには答えたい、と。

聞かれたら答える、という姿勢がどうも気にいらないのは、受動的な発信であるにも関わらず、自己表現を内包しているかのような印象があるからでしょうか。聞かれないと答えられない。自分からは何を発信したらいいのかわからない、というのが、浮き彫りになっているように観察されます。

あらゆる選択肢を与えられて生きてきた人にとって、自分の内側から、0を1にするという経験が難しいということなのかもしれません。きっかけがあれば、前に進める。どの方向に進めばいいのか、後ろから背中を押されるのをまっているのです。

自分がどこに行きたいのか、しっかり立ち止まって考える。歩き始めるきっかけを自分から見つける、というのは、雑多な情報ばかりがあふれる今日において、とても重要です。

子供の頃に、オジギソウというものがありました。ちょん、と葉っぱを触ると、まるでお辞儀するかのように、葉っぱが動くのです。たしか、葉っぱが内側に閉じるような動きをしたように記憶しています。

人は他人に質問されても、失礼だ、興味ない、そんなこと聞くな、と勝手なことばかり言います。それに比べれば、お辞儀だけして静かにたたずむオジギソウのほうが、上品と言えるでしょう。

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