ベリーショートな小説
目を覚ましたら、もう夜になっていた。今日中に出かけて所用を済ませなければならないと思っていたけれど、またしても来週に先送りすることになってしまった。何かしないといけないと、自分の身体を起こそうとするけれど、自分の思うようには動いてくれない。これだから、いけない。生来のだらしなさが恥ずかしい、と白井隆太は思う。先週の段階から、今週は土、日、月、火と四連休がわかっていた。先週の段階から、この四連休のうちのどこかで、必ずやろうと考えていた。それが結局、出来ずに終わろうとしている。日々の仕事で気が張っているとはいえ、休日にだらだらしすぎだと自分でも気づいていた。何かやらねばいけない、自分のために何かしなければいけないと思っていても、何が自分のためになるのかわからない。何かやらねば、でも何を?いいからなんでもやるんだよ、と自分に発破をかけてはみても、仕事にプラスになるようなことを、なぜ休日にやらねばならないんだと考える始末。どこでこんな打算的な考えを持つようになってしまったのか、とまたしても自己嫌悪。こんなどこにもたどり着くことのない考えだけが頭の中をかけめぐる。
いまや世界中が、正体不明の感染症によって生活様式が変化させられようとしている。ウィズだかゼロだか知らないけれど、いろんな論客がいろんな主張をもってきて、何が正しいのかすら判断が難しく、玉石混交の情報から各自が真実を見つけ出さなきゃいけなくなった。真実を見つけ出す、ということなのか、それぞれが信じたい現実を切り出す必要がでてきているのか。家の中から得られる情報をもとに、それぞれがなんとか生き抜くすべを探しているのだ。
誰かがこう言っているから、きっと真実はこうなんだろう。あの人がこう言っているから、きっとこうなんだろう。誰を有識者としてみなすのか、という部分においては、それぞれ個人の知性が現れてしまう部分でもあるかもしれない。しかし、そういう話だけでもないのだ。自分の頭で考えて、自分の判断で行動する。他人がどうこう言うから、ということにだけ注目するのではなく、自分はどうしたいのか、何を考えているのか、ということにフォーカスを当てていきたい。
だらだらとテレビを見ていると、極論、バカになってしまうのではないかと感じてしまう。頭を使わずに、ただただ娯楽を受け入れているだけだからだ。エンターテインメントを楽しんでいる、と言われればそれまでかもしれない。しかし、真の楽しさは享受ではないだろうと白井隆太は思っている。自分が何かを作り出すこと、つまりアウトプットすることが心の安定を保つには大切なことだと考えているのだ。何を作り出せるのか、というところにその人の可能性が眠っている。それを引き出すことが楽しさにつながるのではないかと考えているのだ。しかし、それは苦痛を伴う。きっと才能がないからだろう。つまり、何かやりたいことがある、それの能力を身につけたい、しかし、稚拙なことしかできない。否、稚拙と言えるレベルに達することもないゴミしか作ることができない。そんなこと、頑張って何の意味があるのか、という行き場のない感情が渦巻いている。結果、最初の一歩も踏み出せずにいる、というわけである。最初の一歩も踏み出せないでいる人間が、いったい何をできると言うのだろうか。