文章を書く

 以前、高校の国語教員が集まる研修会に参加した時に、ある先生が話していた言葉が印象に残っている。それは「人は頭の中で少なからず文章を書いている」というものだった。
 これをベースに様々な思案を巡らせた。何かを考える時、思う時、発語しようとする時、必ず頭の中で瞬時に言葉が組み立てられる。この時、語彙力や理解力が備わっていれば、または脳内の思考のみで完結できてしまう事柄に対してであれば、不都合は発生しない。
 例えばコミュニケーションにおいて齟齬が発生する場合は、思考に不都合が生じていると言える。主に言葉の使い方や、他者理解に問題があると考えられるが、正直これはある程度の時間をかけて人と関わっていく中で改善されていくと思っている。完成はされなくとも、及第点のレベルに達するのはそこまで難儀ではない。ひとまずは傷つけず、踏み込み過ぎなければ良いのだから。
 脳内で文章を作る。その中で不都合が生じる状況としてもう一つ、自分の思考や感情に整理がつかない場合というのもある。私は先の例に比べると、こちらの方が深刻だと考える。他者とのコミュニケーションには及第点を見いだせると述べた。しかし、死ぬまで付き合い続ける自分の思考に対して妥協していくならば、必ずどこかで限界を迎えるはずだし、処理が追いつかないといわゆる「感情的」な言動をとってしまうことになる。そう考えると、自分の内側を整理することの方が重要なはずである。自己中心的な態度ではあるが、自分は当たり前に中心に存在しているのだから、ここで綺麗事を言うつもりはない。また、自分を理解しているからこそ、逆説的に他者理解の解像度も上がっていくものであろう。

 話題を戻す。恐らく人は、頭の中だけでの思考の整理が困難な時、アウトプットとしての文章化に行き着くのだと思う。ここではキャパシティは問題にならない。思考や感情に決着をつけようとする行為そのものが尊いからだ。整理し、飲み込む手段として文字にする。著す。この営みは思考を可視化することであり、同時に自意識と対峙することでもある。だから書いた物を読み返してみると、自分って変だな、考えすぎだ、等の気持ちになることがよくある。だがそれは、向き合おうとした者にしか見えない自分の姿である。こういう「自己中心的」な態度は歓迎されるべきで、反対に自分をルールとし、善だと信じて疑わない「自己中」よりは、よっぽど賢明だと考える。まずは自分が思うことを書き、その後で体裁を整える。どう思われるかなんてのは、商業ベースの文章で無い限りは二の次で良い。

 日々に忙殺される人、考えない方が楽だと気付いた上で考えないようにしている人、そもそも考えの無い人。事情は数あれど、自分の考えをなあなあにして生きている人は沢山いる。それが普通なのだとしたら、わざわざ文章を書きたがる我々のような人たちは普通ではないことになる。普通とは、当たり障りのないことだ。普通の生き方を否定する意図は無いが、私は純粋に「面白くはないな」と思ってしまう。それならば普通ではない方を選び、望んで「当たり障り」の側になる。
 私は大人になって取り繕うことが達者になり、繕った姿の自分が好かれることも多々あった。なまじ理解力を持ち得てしまったため、その度に、求められている姿を貫こうとしてきた。本来の自分はもっと内気で湿度の高い怠惰な人間性のはずで、どう好意的に取ろうとしても気色が悪かった。だけど自分はその気色悪さを容認し始めたことにより、人に対して不快にさせない接し方や、自分の見せ方の工夫ができるようになってきた。自分を受け入れたことで、他者を思う余裕が生まれた。そうすると自分の本質が、これまで繕ってきた姿の自分に徐々に近づいている気もしてくる。

 負を知って初めて分かる正があると思う。今でも当然のように負の面は消えずに残っている訳だが、これも別に隠そうとしなくて良いと思う。全部ひっくるめて自分だ。子どもみたいにはしゃぎたいし、年相応ににお姉さんムーブもしたい。斜に構えて冷笑をかましたり、インテリぶって思索に耽ったりもしたい。自意識と向き合った果てに色々な自分が見えてくるのであれば、それは人間的な奥行きなのだと思いたい。そしてそのプロセスとして、私はきっと文章を書くことをやめられない。


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