【小説】ファントム《6分》
彼が眠りから覚めるとそこは病室で、左足は包帯が巻かれており、右足は無くなっていた。文字通り。
隣で看護師が花瓶に花を差していた。花の名前は分からなかった。きっと「お大事に」というメッセージなのだろうと彼は思った。
体は痛むかと看護師は尋ねた。
「痛みはない」と彼は答えた。そう答えた直後に痛み始めた。身体の全てが痛いと言っていた。フライパンの上で焼かれるような痛みだった。左足も痛がっているし、消えたはずの右足も痛いと言っていた。神経がおかしくなっているのだ。彼は自分の右足を見つめた。何度瞬きしても右足の姿は戻らなかった。彼は漠然とした不安を感じたし、不安はあまりにも強く、深刻だった。控え目に言って取り乱していた。
「一昨日の新聞で読みました」
彼は病室のベッドの上で何日眠っていたのかを暗算した。
「あの場にいた人たちはどうなった?」と彼は訊いた。
「何人かが亡くなりました」と看護師は言った。
「私は片足を失ってしまった。右足を爆発源に向けていたから」
「両目を失った人もいます。それに、あなたのお陰で一命を取りとめた子も」
「両目?」
「2本の釘が刺さったんです」
「彼はどこに?」
「他の病院に搬送されました。母親を名乗る方が昨日あなたを尋ねてきました。礼を言いたいとのことで。危険な状態にはないけれど、まだ意識が戻らないと伝えると帰られました」
「なぜあの場を訪れてしまったのかわからない」
「ですが勇気ある行動です」
それから看護師は沈黙した。掛ける言葉を探しているのか、彼の言葉を待っているのか、彼にはわからなかった。
「何かあれば呼んでください」看護師はナースコールのボタンを彼の右手に乗せた。「包帯を替えに来ます」
彼は右手の指を曲げようと力を込めた。親指は僅かに動くようだった。
「他の患者の様子を見に行く前にテレビを付けてくれないか。ニュース番組が見たい」と彼は言った。「テレビを消したくなったらナースコールを押すよ」
「ナースコールじゃなく、テレビのリモコンを持たせた方がいいかしら」と看護師は言った。看護師はテレビの電源を入れ、彼の顔を見て微笑んだ。それから「気軽に呼んで」と付け加えた。そして病室を去った。
ニュース番組では3日前の爆発を報じていた。ニュースリポーターは懸命に事件を伝えていた。
負傷者は余りにも多く、搬送先の病院を分散させなければいけなかったと。5人が命を失い、10人は身体の一部を失い、その内の1人は自分を犠牲にしてまで小さな子どもを助けたと。それは簡単に真似のできない勇敢な行動であったと。最後に、中心市街地では未だに混乱が収まらず、被害者の家族は悲しみに暮れているとリポーターは締めくくった。
ニュース番組はレストランの焼けただれたソファを映し出していた。なぜ真っ黒に焦げた大きな何かがソファだということが彼にはわかるかというと、それが彼の座っていたソファだったからだ。
指輪を差し出すのが30分早ければ、彼は家のベッドで眠ることができた。彼は悪い結果を恐れ、トイレに逃げて、便器に座り込んで思い悩んでいたのだ。
意を決してトイレからテーブル席に戻る途中、10メートル先に不自然な男がいることに気がづいた。男はリュックサックを通路の中心に放り投げ、彼の席のすぐ近くに落ちた。時を同じくして子どもが自席から立ち上がり、勢い良く駆け出した。駆け出した先が偶然リュックサックの落下地点と察知し、子どもを追いかけた。そして子どもの腕をつかみ、強引に押し倒し、覆い被さった。次に目を開けた時は真っ白で味気ない病室を拝むことになった。
彼の病室に訪れる者全てが彼の勇敢さを称えた。彼にとっては勇敢さなどどうでもよく、絶望しかなかった。あらゆる絶望が彼を気を引こうと取り囲んでいた。何から絶望し始めればいいのか、彼にはわからなかった。
彼はナースコールを度々押した。ただ話を聞いて欲しかった。しかし、いくら話しても語り尽くせぬ何かがそこにはあった。指輪を通す指はもうこの世に無かったし、やがてナースコールのボタンも取り上げられてしまった。
時間が経ち、徐々に彼の包帯の面積が小さくなった。腕や指も動くようになり、指輪の入れ物を開けたり閉めたりすること位はできるようになった。段々と彼の肌が露わになり、背中に多くの傷があることを彼は知った。無数の釘の先端が彼の皮膚に触れたのだった。何本かは突き刺さったと彼は聞いた。
両足の包帯は相変わらず外れなかった。右足は他の物事と同じように戻って来なかった。ある時、看護師から右足を切断されたことを聞いた。しかし、それは嘘だと彼は思った。右足の痛みは確かにあったから。右足の痛みで夜中に目を覚ましたこともあったから。右足だけが亡霊みたいに姿を現さないだけなんだと彼は思った。
彼は目を閉じた時だけ右足の元の姿を取り戻すことができた。想像の中で自由に走ることができた。指輪を通すはずだった手を引き、爆風よりも速くレストランの廊下を駆け抜けることだってできる。目を開けた時に両足が揃っているはずなんだと彼は強く思う。
そうして彼は目を開ける。右足は包帯が巻かれており、左足は無くなっていた。文字通り。
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