競技には2種類ある。邪魔できるか、できないかだ。
リンとクーは幼少期からピアノを習っていて、リンは今は辞めたらしいが、クーは中学校のクラス対抗合唱コンクールのピアノ伴奏を任されるくらいの腕前。年に1、2回、ピアノ発表会でバレー部の練習を休む。
昔なら考えられなかった二足の草鞋だが、先生はもちろん、私もどんどんやればいいと思っている。
ま、9人しかいないから、試合だけはバレーを優先してほしいけど。
でもピアノも、もしかしたら音楽の教師になれるかもしれないという実利的な方向性を含め、自分で楽しんで続けていきたいと思うのなら、私も応援したいと素直に思う。素晴らしいことです👍
ナツは和太鼓の経験者だった。今は続けていないが、リズム感は生きていると思う。
指導者の話を素直に聞く姿勢は、そうした小学校での経験があると思う。
さて、そうした音楽関係の部活でも、やはり競い合って順位というか、最優秀賞というトップに向かうという目標がある。
勝利至上主義ではないが、目標に向かって競い合うことによって技術は磨かれ、人に感動を与え、頑張った本人には経験と、支えてもらったという実感、それゆえに、感謝の心が生まれる。
だから、目標に向かって競い合う経験は絶対に必要だ。
全員頑張ったから全員優勝🏆なんていうルールには大反対だ。
私はこの、競い合う競技、コンペティションというものには、2種類あると、常々思ってきた。
直接、相手に邪魔できるか、邪魔できないか、である。
ピアノ、太鼓、吹奏楽、水泳、陸上、体操、フィギュアスケート、スキー、ゴルフ、射撃、弓道、スケボー、ブレイキンなどは、邪魔が入る余地はない。
どうぞ、思う存分、練習どおり実力を発揮してください。
それを公平に採点して、順位を決めます。
またはタイムが全てです。
という競技。これが一つ。
もう一つは、
野球、サッカー、バスケ、ラグビー、アメフト、テニス、卓球、バド、相撲、柔道、剣道、バレーボールなど。
相手がいることによって、思い描いた戦術が邪魔され、練習どおりに実力を発揮できない可能性がある競技。
自分たちの野球をしたい、させてもらえなかった、など、相手の力量によっては、練習どおりのことができない可能性がある競技。
そういう風に、世の中の競技を区分けして、人々は見ているだろうか?
あまり聞かない。
球技と格闘技はほぼ全て、邪魔し合う構造になっているのではないだろうか?
静かに、ライバルの試技を聞いて見ているしかない競技。
それは、密かに、ライバルの失敗を願う瞬間もあるかもしれない。
対戦して、相手の良いところを出させないまま、自軍の良いところだけが出るように計らう競技。
いや、バレーも、相手のボールアウトを願う瞬間はあるな。
今はバレーボールを愛好し、中学時代は体操部にいた私は、時々、そうした誰にも邪魔されずに演技した経験と、バレーボールでバッチリブロックされた経験とを、両方経験しているので、それらの違いを敏感に感じるのかもしれない。
一つ言えるのは、全力を出し切った!と言えるかどうかの違いである。
採点方式ならば、全力を出し切ったぞと、あとは神のみぞ知る、みたいな神妙な気持ちになるだろう。
しかし対戦方式ならば、全く実力を出し切れず終わることもあるわけで、そうした無念さは残る。
指導者として、全く手も足も出ない負けで終わるわけにはいかない。
なんらかの課題をあらかじめ設定しておいて、それを達成できたかできなかったかを判定しなければ、最後のコメントができない。
とにかく自分たちが練習してきた成果を、思う存分発揮できるかが試される競技に比べ、相手が強すぎて負ける対戦型競技は、実力が発揮しきれなかった場合、劇的で悲しいかもしれない。
審査員のせいにできない分。
その分、負けた場合の言い訳というか、どこが悪かったかを、自分たちで語れる能力が、鍛えられてほしい。
審査員の嗜好とかで決まった勝敗ではないのだから。
言われっぱなしじゃなく、言い訳がましくもなく、公平公正な視点で、「これが足りなかったから負けたのであって、改善修正できれば、なんとかなる」
と、言える選手であってほしい。
その逞しさが、対戦型競技の経験として、きっとこれからの人生に活きると思う。
けれど、そんな能力がみんなにあるわけでもないだろう。
だから私は、一つの例として、心を込めたコメントを、日々彼女たちに発していこうと思う。
適当にさらっとじゃなく。
それがずっと後で、良かったなとかダメだったなとか、どちらの評価でもいいから。批評の一つの基準となるような、コーチのコメントだったなと、言われたいと思う。
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