檜原村藤倉地区について(後編)
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第4章 日常生活
Ⅰ 教育
藤倉に設置された最初の教育施設は、明治7年に建てられた藤倉小学校である。初めは檜原小学校の支校として包蒙学校と称し、後に独立して藤倉小学校となった。藤倉バス停から約450m離れた藤原の尾根台地にあったが、児童数の減少により昭和61年に廃校となった。現在藤倉地区の全域は檜原小学校の学区に属している。檜原小には中学校も併設されており、通学には村が運賃を補助して路線バスを利用し、片道30分ほどを要する。また村内に高校はなく、最寄りの高校は武蔵五日市駅近くにある都立五日市高校である。
なお、藤倉小学校の木造校舎は現存しており、有志により宿泊施設「いこいの森ふじくら」として整備されている。ただし責任者に問い合わせたところによると、現在は消防法により、関係者以外の利用はできない状態となっているという。また、茗荷平集落において、大正期に私立学校が設置されたという。建物の跡地には大がかりな石垣なども残されているが、現在は集落ごと無人となっている。
(編注:以上の情報は記事のもととなったレポート執筆、つまり2020年当時におけるものです。現在、藤倉小学校校舎跡は、NPO法人 さとやま学校・東京 により体験型宿泊施設として再整備されています。)
Ⅱ 買い物
地区内には自動販売機が一基あるのを確認しているが、商店・スーパーマーケットとも地区内にはない。特にスーパーマーケットは村内でも少なく、役場付近にある村営スーパー「かあべえ屋」、もしくは五日市まで買い出しに行く必要がある。また、南谷の道路から奥多摩や上野原方面に通り抜けることが可能で、都民の森などの整備された観光地も多い南谷に対し、北秋川流域には観光客を相手とした飲食店や土産物店はほとんどなく、観光客も少ない。
Ⅲ 医療・福祉
地区内に診療所はなく、バスで約30分の場所にある「やすらぎの里」が村内唯一の医療施設である。やすらぎの里は村営の総合福祉施設で、西洋風の城郭を模した施設の中に、診療所、老人ホーム、福祉作業所などが入る。診療所は日曜休診で、内科・小児科・外科のほかに予約制で歯科の診療が可能であるほか、CTや電子内視鏡等の比較的高度な医療設備を有する。ただし、専門的な医療や入院を伴う治療等は村内では対応しておらず、最寄の総合病院は武蔵五日市駅から電車で二駅の距離にある阿伎留医療センターである。
Ⅳ 文化施設
地区内には、藤倉ドームと呼ばれる文化施設がある。ドーム型の屋根が特徴の屋内運動施設で、普段はゲートボールや消防訓練等に活用されている。藤倉ドームはもともと平成19年台風9号により発生した大規模ながけ崩れの跡地の直下に建設されている。災害後に山全体をコンクリートで固める工事が行われたため裏山は比較的安定しており、災害時には避難所としての役割も併せ持つ。また、後述する藤倉獅子舞も、現在はほとんどが藤倉ドームで行われている。
第5章 観光資源・文化財
Ⅰ 中之平遺跡
昭和35年、陣馬尾根上の台地である中之平において黒曜石の矢じりが発見された。村教育委員会と東京学芸大学による調査の結果、4か所の竪穴住居跡のほか、子母口式土器(縄文時代初期、約7000年前のものと推定)が復原可能な形で見つかるなど大きな成果がでた。現在発掘跡は埋め戻されているものの、子母口式土器の時代の遺跡がここまでまとまった形で発見された例は他になく、考古学的にも価値の高い遺跡であるとともに、縄文時代前半の藤倉に人類が定住していたことを示す証拠としては十分である。
また、白岩にある尾根台地においても縄文早期~前期にかけての遺跡が発掘されている。
なお、弥生~古墳時代の遺跡は発掘されていないため、その後の時代にかけて藤倉に定住者がいたか否かは定かではない。
Ⅱ 小林家住宅
小林家住宅は標高約750mの山腹に建つ古民家で、18世紀前半に建てられたとされる。山岳古民家が築造当時の場所にそのまま残っている例は珍しく、昭和53年には国指定重要文化財に登録されている。尾根上の立地に建てられているのは尾根筋を主要な交通路としていた当時の様子を如実に物語っている。
平成20年まで一般住居として使用されていたが、無人化を機に国費を用いて修復工事を実施、建造当時の姿が復元されたほか、トイレや管理事務所等観光地としての整備が行われた。また、谷底の道路から住宅へ資材運搬用に建設された小型モノレールを観光客向けに転用しており、最大斜度43度の急坂をゆっくり登るスリルを体験することができる。電話予約一つで無料で乗車でき、大手メディアでも取り上げられたことから休日には多くの観光客が訪れ、2時間待ちになることもあったという。
また、小林家の裏山一帯はつつじ公園として整備されており、春先には山一面のムラサキツツジが満開となる。毎年4月にはつつじ祭りが開催されるなど、観光客と地域住民との交流拠点としての役割も担っている。
Ⅲ 春日神社と獅子舞
藤原集落には春日神社という鎮守があるが、ここへ奉納されるのが藤倉獅子舞で、五穀豊穣や雨乞いを祈願して行われた三匹獅子舞である。これは地区北側の山々を越えた留浦(奥多摩町)から伝承されたもので、当時の藤倉において尾根を越えた他集落との交流があったことの示唆であると同時に、秋川流域をはじめ西多摩各地に伝承されている今日の三匹獅子舞は全て藤倉を通して伝承されており、藤倉獅子舞はその歴史的・民俗学的価値から東京都指定無形民俗文化財に登録されている。
現在担い手の減少等いくつかの問題点を抱えているが、村から補助金を受けた保存会の活動や、村の協力隊員の活動によって維持されている。獅子舞は現在毎年9月第二土曜に開催され、屋台なども出て賑やかであるが、はじめに神社に奉納した後は藤倉ドームにて演じられている。また、小林家住宅でのつつじ祭りの際も、藤倉獅子舞が40分程度上演されているという。
Ⅳ 東安寺(廃寺)
白岩にある掬水山東安寺は、山号、寺号が明らかであるが、宗派、創立、開山等が一切伝えられていない。現地にある碑文は、応安6年(1373)の銘がある板碑を根拠に、室町時代初期から寺があったと推測している。『檜原村史』はこれについて慎重で、外から板碑が持ち込まれた可能性を示唆している。ただ、跡地の畑周辺に元禄12年(1699)の石仏が多数あり、その頃から寺院があったことは間違いない。
『新編武蔵風土記稿』には記載がなく、白岩には阿弥陀堂が存在していたとのことであるが、東安寺との関係性は不明である。また、情報が乏しく廃寺となった時期は不明である。
跡地には石仏と檀家の墓が残っている。また、山号の由来にもなった井戸があり、現在も水が湧いているとされるが、井戸は発見できなかった。
Ⅴ 寒澤寺
中組には寒澤寺という寺院がある。山号は延命山である。村史によると、開山は1626年という。現地にある碑文によれば、ある僧侶が深山幽谷に囲まれた藤倉を修行の地として選び、多くの僧侶が集まり開山の運びとなったという。村内にある寺院は宝蔵寺、天光寺など一部の寺院を除いて臨済宗建長寺派、本宿の吉祥寺の末寺であるが、寒澤寺もその例に漏れず臨済宗である。
『新編武蔵風土記稿』には、
とあり、当時の様子を伝えている。かつての寒澤寺の位置について、村史は現在の旧・藤倉小付近にあったと言及している。明治期には小学校の校舎として使用されたり、庭で芝居が行われたりしたこともあったが、大正期以降10世で住職が絶え、昭和39年に村に給食場として土地を提供、建物は取り壊された。
しかし、住民はその後も協力して本尊を守り続け、平成15年、檀家の出資により別の場所に本堂が再建された。現在寺に住職は常駐しておらず、住民が共同で管理しており、集会場としても使われている。
Ⅵ 天照皇大神宮
茗荷平という無人化した集落にある神社である。戦国時代に檜原城を守っていた北条氏の家臣である平山氏久が茗荷平に逃れてきたという伝説があり、この神社も氏久によって建てられたという話がある。あるいは、住民が熱田神宮へ行って勧請したという説もあるが定かではなく、『新編武蔵風土記稿』にも記述がない。大正時代頃までは村内外から多くの人が訪れて賑わったが、その後急速に無名になってしまった旨が『檜原村紀聞』に記されている。
茗荷平はおよそ15年前に無人化し住宅の老朽化も進行しているが、社殿と鳥居は最近建て替えられたといい、新しい状態を保っている。茗荷平へアクセスするには山道を1時間近く歩く必要があるが、道中は現在も人が一人歩けるよう最低限に維持されている。
Ⅶ 石碑・石仏・祠
藤倉には多くの石仏や石碑がある。ここでは、藤倉にある石仏の種類とその歴史的・文化的価値を、檜原村教育委員会発行の『檜原村の石仏』(以下『石仏』と表記)を参考に列挙する。なおこの書籍は発刊が昭和50年代と古く、その後石仏が発見されたり失われたりしている可能性があることを記しておく。
馬頭観音
『石仏』によれば、村内で最も数の多い石仏は馬頭観音で、155基あるという。造立の年月が分かっているもののうち、檜原最古のものは1716年に造立されたもので、この一つが藤倉地区内にある。『石仏』の調査では藤倉において日向平、中組を中心に25基が確認されており、その価値は「交通」の項で述べたとおりである。藤倉では、山腹や尾根筋の歩道沿いの他、道路の改修の際に撤去された石仏が、一カ所に集められたところも散見される。二十三夜供養塔
二十三夜はもともと女性の祭りとされ、二十三夜の月を拝めば願いが叶えられ、幸福になれるという願いから成立したものと考えられている。江戸時代中期から明治にかけて盛んに行われていたと伝わり、女性の他に青年の集まりの場でもあったと村史は考察している。『石仏』の調査で確認された34基のうち、藤倉にあるのは比較的新しい2基のみ(1864年と1865年の銘がある)で、そのうちの一つが藤倉バス停の前に現存しているのを確認している。寒念仏供養塔
寒念仏とは冬の寒い晩、大声で念仏を唱えながら歩く生活を一月にわたって続ける、という念仏講の一種である。また、冬季に大勢が一堂に集まり念仏を唱えたというケースもある。『石仏』によれば村内に20基、藤倉に3基あり、現存するものは白岩の東安寺跡、藤倉バス停で発見している。富士講に関する石碑
バス停前の分岐には「仙元大神明藤開山」と書かれた石碑が安置されている。富士講といい、江戸時代には特に盛んだった。藤倉地区において富士信仰があったことが分かる。藤倉バス停よりわずかに南西へ下った角で発見。寒澤寺僧侶の墓碑
住民によれば、藤倉バス停前の石仏の一部は寒澤寺の僧侶10代の墓であるという。他の墓と違い、僧侶の墓は丸いのが特徴である。小祠
村史には、春日神社・天照皇大神宮の他に第六天神社、熊野神社、八坂神社が記載されているが、いずれも現段階では特定できていない。また、倉掛において白岩沢の対岸に小祠を発見し、渡渉して確認したところ神体は大きな岩山であったが、これが村史の中の(もしくは村史に記載のない)どの神社かは不明である。林道開設碑
藤倉バス停から北へ少し進んだところに林道の開設碑が存在する。現在は半分枯れ草に囲まれる形になっているが、昭和8年の銘がある。これは惣角沢沿いの村道に関するものと思われる。林道が開通した詳細な年月は確認できなかったが、沢筋を通る車道の開通が当時尾根伝いに移動する生活を行っていた藤倉の住民の生活に大きな変化をもたらしたことは言うまでもない。
以上が、藤倉にある石仏等のうち、現時点で確認できているものについての解説である。今回の研究で、『石仏』を参考にして村内の石仏について種類ごとの造立年代を下のようなグラフにまとめたところ、一部の石仏には顕著な盛衰がみられることが判明した。
これらの石仏は全国でも数が多く、単体での価値は高いとは言いがたいが、集合として見ると下図のように興味深い変化を示すことがあり、かつての文化や流行を研究する上で貴重なものとなりうる。
石仏の保全について村役場に問い合わせたところ「特別な取り組みは行っていない」との回答であった。また、石仏の位置や画像などより詳細なデータが郷土資料館に保存されているが、盗難などへのリスクから一般公開はされていない。これらの石仏は、当時の藤倉をはじめ地方における生活様式を垣間見ることのできる貴重な証人として、然るべき調査・保存が行われることが望ましい。
終章 藤倉を未来へ
ここから先は、現在藤倉が抱える問題とその解決策について、筆者個人の考えも交えながら解説したい。
(編注:繰り返しとなりますが、この記事は3年前、藤倉かずま(仮名)が中2の頃に執筆したものです。現在の藤倉自身、あるいは振興研が共有する思想と必ずしも一致するものではありませんのでご承知おきください)
Ⅰ 産業の喪失
かつて藤倉の住民の多くが炭焼き・林業等の第一次産業を営んでいたが、これらは需要の低迷や外国製品の台頭等により低迷しており、多くの山林が荒れたままとなっている。藤倉の経済的振興を図るためには、補助金や製品のブランド化等、市場における森林資源の価値を高め、同時に生産コストを低く抑える取り組みが不可欠である。また、山林の荒廃は景観を損ねるとともに自然災害等に対する脆弱性が高まるため、定期的な整備補助や広葉樹林への転換などの政策を行うことも有効である。
他に、観光業や企業誘致等新たな産業の開拓が解決策として挙げられる。藤倉には小林家住宅、旧藤倉小学校ほか自然・文化の調和した多くの名所があるが、これらはほぼ紹介されていないか、或いはアクセスに難があり、訪れる観光客が少ないのが現状である。また、藤倉には現在店舗がなく、また小林家住宅等も全て無料であるため、観光開発が経済効果に必ずしも直結していない。これは藤倉をはじめ檜原村全体の問題でもあるが、今後は文化財の保存・発信に尽力するとともに、地元と観光客の経済的・精神的交流の場の設置を検討すべきである。
産業の誘致については、現在きのこセンターによるきのこの生産が行われており、ブランド化にも成功している。藤倉は東京都心から自動車で2時間程度と好立地にありながら、標高が高く比較的気温が低いため、きのこを例とした食品の生産にも有利である。また、ITを活用した企業の誘致や、空き家を利用した小規模事業者の誘致なども有効な手段である。以上のような対策を官民が連携して行うことで、産業の集まる駅としての藤倉・檜原を構築する必要がある。
Ⅱ 人口の減少
全国で少子高齢化・過疎化に伴う人口減少が叫ばれる時代において、藤倉もその例外ではない。藤倉地区の人口は15年前と比べて半分にまで激減した。藤倉は現在いわゆる限界集落の様相を呈しており、近い将来消滅する可能性がある。現に、十数年前に茗荷平が廃村化して以降、猿江に代表される山腹の家屋からは定住者が消えた場所も多い。
檜原村全体におけるあきる野市への通勤率は98%と極めて高く、村の森林・観光資源を利用しきれていないことは先の項で述べたとおりであるが、村内でも最奥に近い場所に位置する藤倉地区にとってこの数字は極めて不利である。さらに、医療、福祉、買い物といった日常生活の場だけでなく、幼稚園・小中学校などの初等教育さえ徒歩圏内に存在せず、高校・大学の高等教育学校は村内にもない。これは高度な医療や教育が要求されている現代社会において大きなペナルティである。
以上のような原因から藤倉地区、ひいては檜原村全体で特に若い世代の人口減少が著しく、山あいの地区を中心に消滅の危機に瀕している。このまま地区が消滅すれば、その場所で人々が生活していたと事実が過去のものとなり、徐々にその事実も忘れられていく危険がある。これを防ぐためには、先に述べた産業の振興とともに、日常生活に事欠かないようなインフラ整備への投資を、行政が率先して行うべきである。
また、現代社会において集落を維持するのが難しいのであれば、昔を生きた人々の暮らしを語り継ぎ、後世に残していくこともきわめて重要である。特に、かつての産業を直接知る人が年々少なくなっているいま、住民自らの声を集め、われわれの子孫に受け継いでゆく必要がある。
Ⅲ おわりに
以上が、現時点で藤倉について分かっている事項のまとめである。ここが東京なのかと疑うような山岳の風景の中で、人々は数百年にわたって営みを続けてきた。その中で特に記したいのは、都市に住む我々と関わり合いである。人々は、都市の商人の存在なくして食糧を得ることはできなかった。また、需要の低迷という変化をもって、森林と関わり合ってきた藤倉の産業を奪ったのも、都市に住む我々であった。
我々もまた、藤倉をはじめ西多摩の人々の存在なくして今日の生活を手に入れることはできなかった。今の東京の発展があるのは檜原産の木材のお陰であるのは産業の項で述べたとおりである。また、山奥の森林が荒廃し、いざ洪水が起こった際、困るのは私たちである。
今や全国の山村で過疎化が叫ばれている。時代の流れに合わなくなったのであればそれは仕方のないことかもしれない。しかし、そこへ人の営みがあったことそのものを、何の対策もしないままに時の彼方に葬り去ってしまうのは、あまりにも薄情というものではないか。まずは、行政、特に国や都などの経済力のある機関は、地方の活性化に向けて上に述べたような対策を早急に講じ、責任を持って完遂すべきである。
同時に、都会に住む全ての人々が、己の暮らしは地方の経済活動によって支えられてきたことを知る必要がある。その上で、我々に何ができるのかということを真剣に検討しなければならない。筆者としては、消え失せようとしている文化の火を未来へ引き継ぐため、藤倉について学び、理解し、発信し、後の世代に語り継いでゆく責任を感じ、今このように途中経過として報告している次第である。末筆ながら、調査にご協力頂いた多くの皆様に感謝申し上げるとともに、今後の藤倉の発展を期待し、結びとさせていただく。
参考文献等
Ⅰ 書籍
檜原村史編さん委員会編『檜原村史』檜原村, 1981
徳川幕府編『新編武蔵風土記稿』千秋社, 1987(復刻版)
檜原村文化財保護調査委員会編『檜原村の石仏』檜原村教育委員会, 1977
瓜生卓三『檜原村紀聞 その風土と人間』東京書籍, 1977
Ⅱ Webサイト等
檜原村ホームページ (http://www.vill.hinohara.tokyo.jp)
→檜原村の公式サイト。主に施設情報などを参考にした。檜原村新交通システム導入計画 (https://www.vill.hinohara.tokyo.jp/0000000302.html)
→檜原村が作成したデマンドバス等に関する資料。地名が教える古い檜原村の歴史の足跡 (https://hinohara.himawa-ri.net)
→サイトの作者は檜原村史編纂委員会会員であり、一定の信頼性がある。東京都建設局ホームページ (https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp)
→平成15年に発生した土砂災害の様子について参考にした。地理院地図(https://www.maps.gsi.go.jp)
→別に提出する地図の引用元として使用した。
2023.07.09公開
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