【雑記】純粋な読者として小説を読む時のことを考えてみた(2)
序盤から登場人物の置かれている状況や設定が謎めいていて、よくわからない場合も、読むのをやめる。
どういうスタンスで読み進めていけばいいのか、困るからだ。
感情移入の持っていきどころがなく、その気持ちがしばらく塩漬けにされて、カラカラになったときに状況がわかっても、寒々とした心で本を閉じるだけだ。
ミステリの場合で言うと、最初に大きな謎が一つあって「これはなぜ?」と疑問に思うと、興味を持って読み進めていく。
ところが最初から謎が5個も6個もあったら「わけがわからない」になって、謎そのものがどうでもよくなって、読むのをやめるのだ。
できれば、主人公や関わる登場人物の関係は、なるべく早めにわかるようにして欲しい。
もちろん叙述トリックなどで、隠しておくのが狙いの場合はあるかもしれないが、やはり不明な点がたくさんあると、ページをめくる手が止まるのだ。
描写がいつまでも続いている小説も、読むのをやめる。
いつもの日常、例えば喫茶店の中で話している二人がいたとして、片方がコーヒーに砂糖を入れただの、ミルクを入れただの、なんたらケーキの説明だの、こういうのを長々と書かれたら、「合わないな」と思う。
究極、「喫茶点で話す必然性ありますか?」と思ってしまう。
しかも、話している内容が陳腐でどうでもいい内容だと、……いや、どうでもよくてもいいんですよ、「そんな考えあったの」とか「こいつ、頭いいな」とか「的を射ているな」とか「面白い性格の人だね」とか、感心させてもらえば。
それをほとんどの人が喋るような内容を、――ワイドショーのコメンテーターがしたり顔で言うような薄い内容のことを――延々と読まされそうな雰囲気を察知したら、読むのを即やめる。
THE NEW COOL NOTER 賞の講評で、日常から始まるありふれた光景から始めるな、というのを見かけたが、書く方からしたらそのほうが無難だと思うし、読む方からしたらそういう書き出しの小説は読まない。
※「ありふれた」というものは個人の主観によるものだから、作者の主観と読者のそれとは異なっていて、作者が「珍しい」と思っても、読者は「ありふれた」となるのではないかと思う。自戒を込めて。
(続く)