「アルゴリズムの鬼手」 ~ 祖父の家での忘れられない対局 ~
この小説は2004年の第8回日本ミステリー文学大賞新人賞に応募して、最終選考4作品まで残ったが、あと一歩届かず落選した小説だ。
ずっと書籍化したいと思っていたが、十数年ぶりに念願がかなった。
執筆当時、私は将棋にかなり凝っていて、将棋に関する書物は手あたり次第に漁っていた。
NHK将棋も必ずビデオに録画し、棋譜を並べながら、解説を聞いた。タイトル棋戦も必ずチェックし、棋譜は並べた。
当時流行った藤井システムや横歩取り8五飛などの戦法も、あますところなく、自分なりに研究した。
プロ棋士の先生とも偶然知り合いになって、しばしば飲みに連れて行ってもらえるようになった。
日本将棋連盟が発行する「将棋世界」は熟読していて、そのプロ棋士の先生からも「君は棋界のこと、詳しいねえ」と苦笑交じりに言われた。
そんな状況の中、この小説を執筆したので、取材という点では、まったく苦労をせずに執筆することができた。
考えてみれば、私は将棋に対して、子供のころからずっと憧憬の念を抱いていたのかもしれない。
私が小学生の頃、祖父の家では親戚が集まると、必ず皆で集まって将棋を指していた。一番強かったのは、二段の棋力を持つ祖父で、あとはどんぐりの背比べだったと思う。正月やお盆には、親戚中の大人たちがやんや言い合って将棋を指していたのをよく見かけた。
そんなおり、ひょんなことから大学に通っていた従兄と将棋を指してみろ、という話になった。
なんでそういう話になったのかはわからない。
ただ、私は当時「序盤戦の指し方(五十嵐豊一著)」という棋書を父に買ってもらったばかりで、「矢倉囲い」の棋譜をよく一人で並べていた。それをどこかで見ていた父が、指してみなさい、と言ったのかもしれない。
当時私は小学五年生。あっという間に従兄が勝つだろうとの大人たちの予想だった。
ところが私は本を読んで覚えたばかりの「矢倉」に囲って挑み、従兄を手こずらせた。居玉に毛の生えた状況で開戦した従兄は、私の金銀で囲まれた固い守りを攻めあぐね、ずいぶんと駒損していった。
固く守った私は駒得を重ね、次第に有利になっていった。そして終盤には私の必勝形になった。
ところが勝ったと思い、舞い上がった私は、観戦者の大人たちにいいところを見せようとして、玉を華麗に即詰みに討ち取ろうとした。しかし詰ます途中で、勘違いにより痛恨のミスをして、最後の最後で負けてしまった。
負けたとはいえ、当時国立大学に通っていて頭がいいと言われていた従兄にあわや勝つところまで善戦したので、親戚の叔父たちは私のことをたいそう褒めてくれた。
日頃は気難しい祖父も「香一郎は矢倉が好きか」と言って感心していたこと、それがとても誇らしかったことは、今でも鮮明に覚えている。
その後は将棋を指す相手もおらず、父が囲碁の高段者だったこともあり、私の興味は次第に囲碁へと移っていき、囲碁を打つことはあっても、将棋を指すことはなくなった。
だが、その対局は、初めて本で覚えた矢倉に囲い、「定跡(基本)というものは大切なんだな」と身をもって知った貴重な経験だった。
それから月日が経ち、大人になってから、なぜか私の将棋熱が再燃した。そして、その最中に「アルゴリズムの鬼手」を書き上げた。
考えてみれば、従兄と指した将棋が、この作品の生まれるスタートだったのかもしれない。