はないちもんめの謎
「はないちもんめ」、なんと懐かしい言葉であろうか。
この言葉を聞いて、和やかな、ほのぼのとした印象を持つのは、筆者だけではあるまい。
諸君は幼少の頃、この「はないちもんめ」で遊んだことがあるだろうか。誰でも知っているこの遊戯、むしろ遊んだことのない人のほうが珍しいのではないだろうか。
「はないちもんめ」とは、数人で二つの集団になり、欲しい子を指名して、仲間を増やしていくという、原始的ではあるが、意外に奥の深い遊戯である。
筆者も子供の頃には、よくこの遊戯をして遊んだものだ。大人数になっても、皆で楽しめるというのが、その人気の秘密だろう。
この「はないちもんめ」で君が欲しいと指名されるたびに、嫌われていない自分を再確認し、ほっと安堵の胸を撫でおろしたことが昨日のように思い出される。この遊戯は人気者の順位を決める優秀な遊戯でもあったのだ。
筆者は、この「はないちもんめ」の謎を解くことに、長年、心血を注いできた。日本中の子供達から愛されているこの歌の意味を解明するために寝食を忘れ、ひたすら「はないちもんめ」に取り組んできた。
そしてついに、筆者は「はないちもんめ」に含まれる驚愕すべき事実を突き止めた。これは多くの歴史学者たちがなしえなかった偉業であると共に、人類の歴史すら変えるほどの大発見であった。あの歌には驚くべき謎が隠されていたのだ。
まあ、前口上はこのくらいにして、「はないちもんめ」の研究結果を順に述べることにする。
まず、「はないちもんめ」の歌詞を以下に引用してみよう。
◇
勝って嬉しいはないちもんめ
負けて悔しいはないちもんめ
隣のおばさんちょいと来ておくれ
鬼が恐くて行かれませんよ
お布団かぶってちょいと来ておくれ
お布団ボロボロ行かれませんよ
お釜かぶってちょいと来ておくれ
お釜底抜け行かれませんよ
あの子が欲しい
あの子じゃわからん
その子が欲しい
その子じゃわからん
相談しよう
そうしよう
◇
この歌詞には特筆すべき点が二点ある。
まず最初に、「はないちもんめ」とは、いったい何のことだろうか、という疑問である。
「はないちもんめ」は「花一匁」と書く。筆者は、言語学の権威である、金田七秋彦先生に、この意味を訊いてみる事にした。
金田七秋彦先生は、筆者が最も尊敬できる言語学者で、筆者は学生時代、先生に憧れて言語学者を目指したほどである。もちろん彼の著書は全て持っていて、どれも本がボロボロになるまで読み倒した。
筆者は、初めてお会いする先生を、子供のような眼で見つめながら、直立不動のまま、「はないちもんめ」の意味を訊ねた。
ところが、彼は筆者のことを胡散臭そうに白い眼で見た後、眉間に皺を寄せて、傲慢にこう言い放った。
「それで、君はいったいなにを調べたいのかね?」
そう言うと、さも興味がなさそうに、横を向いた。
思いもよらない冷淡な応対にどぎまぎしながらも、筆者は平静を装い、遠慮がちに金田七先生に答えた。
「はないちもんめの歌詞の意味を調べているのです」
彼は筆者に一瞥をくれると、不機嫌そうにこう言った。
「やめときなさい。そんなものを君のような素人が調べても意味がない」
筆者はしばらくの間、屈辱で体をぶるぶると震わせていた。耳は燃えるように熱く、顔は真っ赤になっていた。悔し涙がこぼれそうになったが、必死で我慢した。
これがあの憧れの金田七先生であろうか。これが筆者の尊敬してきた金田七先生であろうか。いや、これが長年敬愛してきた金田七支持者に対する仕打ちだろうか。
これだから学者バカは困るのだ。こちらが下手に出ていれば、果てしなく増長する。彼らは「先生、先生」と煽てられて自惚れているのだ。要するに、やつらは世間を知らないのだ。単なる社会不適格者なのだ。
なんとか冷静さを取り戻し、筆者はへへっと愛想笑いを浮かべた。
「先生、教えてくれたら、安くていい風俗店を紹介しますよ」
こういう処世術は学者如きには到底真似できないであろう。
「なに? 風俗店だって」
筆者が風俗と言った瞬間、この好色爺、いや、金田七先生は相好を崩し、ぺらぺらと喋りだした。学者とは本当に度し難いものだ、と筆者はこの時つくづく思ったものである。
話を元に戻そう。この好色爺が言うには、「花」とは女の子、あるいは、子供のことで、「匁」とは、軽い重さの単位(一匁=約3.75g)ということなのだ。
次の疑問点である。
それは、欲しい子を指名するのに、わざわざ「あの子」、「その子」のような代名詞を使って曖昧な言い方をしている点である。
なお、念のために言及しておくが、「その子」とは、おニャンコクラブにいた「河合その子」のことでは断じてない。
また、私がいきつけの風俗店で欲しい子を指名する場合には、「美姫ちゃん」一択である。はないちもんめの歌詞とは違い、相談の余地はないことを、ここに明記しておく。
閑話休題。
欲しい子がいるなら、はじめから名前を言えばいいし、まだ決まっていないなら、最初から相談しようと言えばいいのに、歌詞ではくどくどと不毛な会話を続けている。
おまえらは馬鹿ではないか、と言いたくなるような歌詞ではあるが、実はここに驚愕すべき重大な秘密が隠されていたのだ。
賢明な読者諸兄はもうお気づきかもしれない。そう。この歌詞は実に恐ろしい意味を持っていたのだ。
結論から言おう。この歌は、「口減らし」の歌なのだ。
口減らしとは、食べることもままならない昔の貧しい人達が、自分達の子供を子買いに売って、いくばくかのお金を貰って、食いつなぐことだ。
「はないちもんめ」の歌は、自分の子供が、子買いに買われていってしまう様子を嘆きながら口ずさむ歌だったのだ。
すなわち、「勝って嬉しい」ではなく「買って嬉しい」なのだ。そして、「負けて悔しい」というのは、「我が子が値切られてしまって悔しい」という意味である。
「あの子じゃ分らん」も「あの子じゃ負からん」、つまり、あの子はいなくなると困る。だから負けられない。と、そういう意味だったのだ。
ただの馬鹿同士の不毛な会話ではなかったのである。
それではこの歌詞の全貌を明らかにしてみよう。以下がその恐るべき現代語訳である。
◇
子供が安く買えた。嬉しいねえ。
わが子が値切られてしまって悔しい。
隣のおばさんちょいと来てもらえますか。
子買いが恐くて外に出られないんです。
じゃあ、お布団をかぶって来てくれませんか。
貧乏でお布団はボロボロなので行けません。
それなら、お釜をかぶって来てくれませんか。
いや、お釜も底が抜けているので行けません。
あの子を売ってくれないか。
あの子はいなくなると困ります。だから負けられませんよ。
それならば、その子を売ってくれないか。
その子もいなくなると困ります。だから負けられませんよ。
うん、相談しようじゃないか
そうしましょう。
◇
これが「はないちもんめ」の真実の歌詞だったのだ。
なんとおぞましい歌詞であることか。なんと恐ろしい歌詞であろうか。なんと絶望に満ちた歌詞であろうか。
否、当然であろう。なんといっても、「はないちもんめ」とは人買いの歌なのだから。
この極めて斬新な発想が、筆者の頭に浮んだ時、喜びで胸がいっぱいになったと同時に、恐怖で背筋が凍りついたことを、今でも覚えている。
読者に問う。諸君は「はないちもんめ」が、絶望と怨嗟に満ちた歌であったことを、少しでも想像できたであろうか。
筆者は早速、金田七先生に連絡を取った。「はないちもんめ」の歌詞には驚愕すべき意味があった、と。
筆者は金田七先生に会うなり、筆者の学説を懇切丁寧に説明した。
金田七先生は筆者の話を退屈そうに聞いていたが、筆者が話し終わると、大きなあくびをひとつした。それから、鼻毛を抜き、ふうと吹いて飛ばした後、鼻でふふんと笑った。
「君も暇だねえ……」
筆者はかっとなり、怒りで目の前が真っ白になった。だが、さらにこの学者はこう続けたのだ。
「そんなことはだねえ、きみぃ、ネットのウィキペディアで調べたら、もっと詳しく書いてあるよ」
筆者は屈辱のあまり、呼吸することさえも忘れてしまったほどだ。
なんということだ。このバカ学者は、筆者の説を鼻で笑ったのだ。しかもネットやウィキペディアなどというわけのわからない外来語で、筆者を愚弄したのである。
たしかに筆者はネットやウィキペディアなる外来語は知らない。しかし、そのことが「はないちもんめ」の歌詞の秘密となんの関係があるというのか。
きっと筆者が名もない三流大学出身なので、小馬鹿にしているに違いない。今にして思えば、この増上慢学者は最初からそんな態度だった。この男は権威主義者なのだ。
たしかに筆者は大した大学を卒業していない。成績も落第すれすれだった。当時の教授に何度も頭を下げて卒業させてもらったことは事実だ。
だが、学問とは真理に対して謙虚であるべきではないのか。いくら三流大学出身の筆者の学説とはいえ、「はないちもんめ子買い説」は、筆者が時代背景を考慮しつつ、時間をかけて論理的に解明した偉大な説なのだ。
この説に関しては、誰にも反論の余地を与えない、神聖不可侵なものなのだ。人類の文化に関わる素晴らしい発見なのだ。文句があるならいつでも相手になるぞ。おう?
いや、固陋な考えしか持てない年寄りに、むきになっても仕方がない。麒麟も老いては駑馬に等しいという。あのバカ学者は、もうすでに過去の遺物なのだ。風俗通いすることしか能のないただの好色爺なのだ。そんな俗物に筆者の説が理解できるわけはないのだ。老いさらばえて、筆者の説を理解できる頭脳など、もう持っていないのだ。
なお余談になるが、あの好色爺、風俗店では大変な鼻つまみ者らしい。実際に、筆者が店に行った時、美姫ちゃんに聞いた情報だから間違いない。
なんでも、もう持ち物は役に立たないくせに、鞭だの蝋燭だの持ち込んで、わしをいじめてくれと懇願するそうだ。あんな爺さん、あんまりやっちゃって死なれでもしたら大変だわ、彼女は眉をひそめてそう言っていた。
つまり、あんな爺さんに筆者の説が理解されなくても一向に構わないのだ。全く問題ないのである。へっちゃらなのである。お尻ぺんぺん、なのである。むしろあの愚かな老人に憫笑をくれてやるべきなのだ。
あなた、耄碌してしまって、私の偉大な説が理解できませんか、と。
最後になるが、「はないちもんめ子買い説」、この説はたしかに突拍子もない説のように思える。一見、根も葉もない噂話のように感じられるかもしれない。
ましてや、古くさい学説を後生大事に持つことにより、既得権益を享受していた学者風情には到底理解できないかもしれない。
しかし、この説にじっくり耳を傾け、「子買い」の時代考証をしてみると、この説が正しいことは、誰でも理解できるだろう、筆者はそう確信している。
筆者の説が、人類の歴史を変える空前絶後の大発見であることは、自明の理なのだから。
※※後日談ではあるが、筆者がこの学説を世に公表したとき、「ネットからの剽窃だ」や、「都市伝説で知っている」などの、またしても外来語を使った、いわれなき非難を受けたが、筆者は、このような卑怯な誹謗中傷には決して屈しないということを、ここに断言しておく。(小柳田 国太郎 著)
(了)