虫とり(8)
その日学校が終わると、私は一人で源さんの家に向かった。源さんが私の想像の中での人間なのか、実在の人間なのか、実際に源さんの家に行って確かめたかったからだ。
源さんの白い家はいつもの場所にあった。
門の前まで駆けた私は表札を見て驚いた。表札には「渡辺」と書いてあったのだ。以前は「柿平」の表札があったはずだ。それなのにいまは「渡辺」になっていた。
我慢できずに私は門をくぐり、呼び鈴を押した。
中から出てきたのは、上品そうな初老の女性だった。源さんの母親ではない。
「どうしたの?」
女性が訊ねたが、私は「間違えました。ごめんなさい」とだけ言って踵を返して走って逃げた。
源さんがいたという証拠はすべてなくなっている。
間違いないのだ。私は源さんと話した思い出もあるし、ささいなことから喧嘩した記憶もある。源さんは決して妄想の中の人間なんかではない。
しかし、これ以上源さんのことを話すと頭がおかしいと思われてしまうかもしれない。
私はその日以来、源さんのことを話すのはやめた。
ただ、私の心の奥底には、いったい源さんとの思い出はどうなってしまったんだろうという思いが、澱のようにひっそりと残っていた。
(続く)
いいなと思ったら応援しよう!
小説が面白いと思ったら、スキしてもらえれば嬉しいです。
講談社から「虫とりのうた」、「赤い蟷螂」、「幼虫旅館」が出版されているので、もしよろしければ!
(怖い話です)