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静かにしろ

 博多着の東海道新幹線「のぞみ」が東京駅から出発するのは朝九時のことだった。
 その日、村山は大阪で大切な仕事があった。彼は本社渋谷区のIT会社に勤めるエンジニアである。
 一ヶ月前、部長の上野が村山に言った。
「村山君、新製品の説明をするために、大阪に出張してもらえるかな?」
 村山は新製品開発チームのプロジェクトリーダーだった。そのため大阪支社の人間に、完成間近の新製品を説明する必要があった。
 平日の朝なら新幹線も混んでいない。わざわざ指定席にしなくても、少し早めに1号車に並べば座れると思っていたので、あえて指定席は取らなかった。
 村山は出発の十五分前に東京駅に到着した。それから自由席乗り場に並んだ。幸い人もさほど多くない。
 ほどなくして新幹線が来た。早めに並んでいた村山は、労せずして三列並びの座席の窓際に座ることができた。
 平日の新幹線ということもあって、サラリーマン風の乗客が目立っていた。昨夜は会議の準備に手間取ってしまい、徹夜に近かったので、村山は、新幹線の中で眠ろうと考えていた。だいたいのサラリーマンは、新幹線移動の時間を、睡眠か仕事に当てるのだ。
 やがて新幹線が東京駅を出発した。
 しばらく村山は外の風景をぼんやりと眺めていた。初夏だということもあって、木々が青々しい。外にいる時、多少のむし暑さを感じていた村山だったが、冷房が効いているのであろう。心地よい気分になっていた。
 品川駅に到着し、座席はほぼ埋まったが、乗客はサラリーマンが多かった。ノートパソコンに向かって入力しているサラリーマン。企画書のようなものに目を通しているOL風の女性。みな一様に自分の用事を黙々と済ませているせいか、車両の中はとても静かだった。
 これが年末年始やゴールデンウイークの時期だと、混雑するやら、家族連れは多いやらで、とても騒がしいのだが、今回は快適な旅になりそうだ。
 しばらくすると、新幹線は横浜に着いた。この後、新幹線は名古屋、京都、新大阪に停まる。しばらく新幹線は停車しないので、ゆっくりできる時間に入る。
 隣に座っている三十代くらいのサラリーマンは、いつの間にか小さな寝息を立てていた。その隣に座っているOL風の女性は、一心不乱に書類を読んでいる。
 新幹線が横浜を出発すると、いつしか村山も眠りについていた。

 けたたましい叫び声が聞こえてきて、村山の目が覚めた。子供が騒ぐ声だ。村山はうっすらと薄目を開けて、隣の様子をうかがった。二人の子供を連れた夫婦が村山の隣に座ろうとしていて、荷物を乱暴に網棚に置いている。
 いつのまにか、新幹線は名古屋に着いていた。隣のサラリーマンとOLは降りたようだ。席が空いたので、この子供連れの夫婦が隣に来たのであろう。騒がしくならなければいいがと思った。
 村山は横目でその夫婦を観察してみた。
 父親は銀縁の大きな眼鏡をかけた小太りの男で、ベージュの半ズボンにチェック柄の安っぽい黄色のシャツを着ていた。頭はスポーツ刈りだったが、とてもスポーツをやっているようには見えない。いかにも鈍感そうな男だ。
 母親は父親に輪をかけて鈍感そうな女で、紫色の小汚い半袖のセーターにモンペのような茶色のズボンを穿いていた。太っているので、通常の服は着れないのであろう。子供が二人もいると、着る服はどうでもいいのだろうか。村山はその服のセンスの悪さに眉をひそめた。
 垢抜けない格好なので老けて見えるが、この夫婦はきっと三十代前半であろう。
 子供は兄弟で、兄のほうは七歳くらい、弟のほうは五歳くらいだった。両親に似て鈍感そうだった。そのうえ久しぶりの新幹線なのか、明らかに興奮している様子だった。
 その四人の親子は、村山の隣の二つしかない座席に座ってきた。そして兄弟はこともあろうか、父親と母親の膝の上に座ったのだ。
 よりによって私の隣に子供連れの夫婦が座らなくてもよいだろうに。
 村山は子供が好きではなかった。いや。嫌いといってもいいであろう。とりわけうるさい子供は大嫌いだった。
 この両親は子供が車両の中で騒いだとしても、周りのことを気にしないタイプに見える。現に今だって、子供の声が頭にきんきん響いている。耳障りなこと、このうえない。
 だが、誰しも列車に乗り込む時はうるさいものだ。列車が出発すれば、少しは静かになってくれるだろう。そうなることを切に祈った。
 ところが、ふと隣に座っている母親を見て、村山は唖然とした。この女は子供に靴を履かせたままで、座席に立たせている。
 なんてことをするんだ。その席はおまえ以外の人間も座るんだぞ。それをわかっているのか。この非常識人間が。
 そんな村山の気持ちにまったく気づかず、母親は子供と能天気に喋っている。
 そもそも太っている女というものは鈍感に決まっているのだ。鈍感だからぶくぶくと醜く太っていられるともいえる。どうやらやつらは、子供を産むことと、太ることで、自分自身が女性であることを忘れるらしい。
 この親子を見ていると、腹が立って仕方がないので、村山はなるべく窓の外に神経を集中しようとした。
「あははは」
「ぎゃはは」
 相変わらず子供達の騒ぐ声は静まらない。乗り込んできた時よりもうるさく、たまに金切り声さえあげる。しかし両親はなんとも思っていない様子だった。
 村山は嘆息した。だいたい、公共の場で子供が騒ぐのは両親の責任だろう。列車の中で騒ぐと、周りの人間に迷惑がかかるものだということを、最初から子供が知っているわけがない。それを教えてやるのが親の務めだ。子供が悪いのではない。親が悪いのだ。やつらは親としての義務を怠っているのだ。
 とはいえ、たまに満員電車の中で、泣き叫ぶ赤ん坊を抱えておろおろする若い夫婦を見かけるが、あれは仕方がない。赤ん坊ばかりは、いくら親が止めたいと思っていても思い通りにはなるまい。申し訳なさそうにしている両親には同情する。
 しかしこの隣の夫婦の場合は、それには当てはまらない。子供はもう大きいし喋ることもできる。言って聞かせれば理解できるはずだ。それをやらない親のほうが悪いのだ。そんなことすらわからないのは、この両親が馬鹿なのであろう。
 この父親はきっと仕事が出来ないに違いない。仕事が出来ないから金が稼げない。金がないからグリーン席や指定席ではなく、自由席に座っている。しかも二人用の席を四人で座っている。指定席だと四人分の席を取らないといけないので、もったいないのだ。
 この貧乏人が。村山は心の中で悪態をついた。
 そのうちに子供たちは袋を開けてスナック菓子をぼりぼりと食べ始めた。袋からぽろぽろとお菓子の破片が床に落ちていく。父親はそれを拾おうともせず、座席のテーブルの上に、ふたを開けた茶のペットボトルを乗せた。両親の膝の上に乗って子供が暴れていた。
 ペットボトルが倒れて、茶が新調の村山の背広にかかったらどうするつもりだ。
 そんな村山の心配をよそに、子供がまたお菓子を落とした。子供は拾おうとしたが父親は静止した。そして、そのまま捨てておきなさい、と小声で言った。
 うるさいだけでなく、こいつらは人間としても最低だ。
 今度は子供が暴れ出し、村山の太ももを土足で蹴った。村山は精一杯の怖い顔を作って、子供のほうをじろりと睨んだ。しかし子供は村山の怒りには一向に気づかず、きゃっきゃっとはしゃいでいた。
 子供の騒ぐ声が、村山の睡眠不足の頭にがんがんと鳴り響いていた。たまらなくうるさい。睡眠をとるどころの騒ぎではない。限界だ。これは一言ビシッと言ってやる必要があるな。

「すみません、もう少し静かにしてもらえますか」
 注意してやろう。そう思い、この親子の方に向き直ろうとした瞬間、村山は考え直して口をつぐんだ。
 この愚鈍そうな両親が素直にすみませんと謝るわけがない、ということに思い至ったのだ。こいつらは自分たちがうるさいなど露ほども思っていないはずだ。注意したら、うるさそうな顔をして申し訳程度に謝り、子供にこんなことを言うかもしれない。
「ほら、隣のおじさんに怒られるから静かにしなさい」
 これは全く反省していない時に発せられる言葉である。その証拠に、あたかもこちらが小うるさいことを言う人間かのような眼で見るのだ。
 世の中にはこんな嫌味な奴もいる。仕方がない。あなたたちは少しも悪くないのだけれど、我慢して静かにしなさい。息子たちにそう言いたいわけだ。そして息子たちは、パパとママをいじめるな、と言わんばかりに私を敵意たっぷりの眼で睨むのだ。
 いや、この非常識な親子のことだ。こんなことを言って開き直るかも知れない。
「子供のすることだから仕方がないでしょ」
 村山は内心で舌打ちをした。そんなことは知ったこっちゃあない。私のほうが迷惑を蒙っているのだ。子供がうるさいのは親である君たちの責任だ。どうして子供のやったことだからといって、まったく関係のない私が我慢しなくてはならないのだ。
 だいいち子供だから仕方がないとばかりに開き直る親が多すぎる。せめて申し訳なさそうな顔でもすれば、こちらも我慢しないではないのに。人様に迷惑をかけるのは、子供も大人も同じなのだ。そんなこともわからないのか、この馬鹿者が。悪態が思わず口に出てしまいそうになり、村山は口を手で押さえた
 こんな親では、子供の教育なんてまともにはしないだろう。子供に馬鹿養成ギプスをはめているようなものだ。この子供たちが長い年月をかけて、こんな馬鹿親そっくりになるのか。そう考えて、村山はぞっとした。
 そんなろくでもない親に限って、さも困惑した振りをして、愚かな乗客どもを味方につけるから始末が悪い。
「子供が少し騒ぐことが、そんなに悪いことですか?」
 これ見よがしに大声で言って、周りをどうだとばかりに見渡すだろう。そしてこう付け加えるのだ。
「子供は、言うことを聞かないものなんですよ」
 想像しただけで身震いした。乗客の中に偽善者ぶった老婆でもいようものなら、私の立場は極めてまずいことになる。年老いた人間は子供というだけで可愛いものだと思い込んでいるから厄介だ。妙な正義漢を振りかざして、こちらをたしなめようとするだろう。さも、私のほうが狭量な人間であるかのような扱いをする。最終的にはこう言い放つのだ。
「そんな大人気ないことを言うものじゃないですよ」
 大人気ない、そう言われることを想像しただけで、村山はかっとなった。なにが大人気ないだ。ふざけるんじゃない。じゃあ訊くが、子供だったらなんでもしていいっておまえは言うのか。盗みでも。強盗でも。人殺しでさえも。どうなんだ? ああん。
 だが、そんなことを言えば、この親は人を見下した態度を取って冷笑を浮かべるに違いない。
「たかだか子供が騒ぐだけのことを、人殺しと一緒にするのは止めましょうよ」
 村山の怒りは頂点に達した。揚げ足を取るんじゃない。人殺しはただのたとえ話だろうが。子供がやることだからといって、なにもかも許してはいけない。私はそう言っているだけだ。それなのにこの親子は、私が我儘を言っているかのように言う。周りの乗客をすっかり味方につけてだ。そして勝ち誇った顔で言うだろう。
「あなた、なにか嫌なことでもあったんですか?」
 屈辱以外の何者でもない。なぜ私がこんなやつらに愚弄されなければならないのか? 
 体中が恥辱でかっと熱く火照ってきた。悔しさのあまり、みるみるうちに村山の目尻の端に涙がにじんできて、鼻の奥がつーんと水っぽくなった。
 拳を握り締めた。悪いのは私か? 新幹線の中で静かに眠りたい。そう思うことは、そんなに罪悪か? 少し静かにして欲しい。そんなことすら思ってはいけないのか? 私にはその権利さえないというのか?
 どうして素直に「すみません」のひとことが言えないのだ。悪いことをしたのなら、すみませんと素直に謝る、おまえらはそう学校で教わらなかったのか? おまえらは法に触れなければなにをやってもいいって言うのか? 
 とうとう村山の目から悔し涙が流れてきた。はっきり言って、こいつらの精神は犯罪者そのものだ。おまえらは社会の害毒だ。許せない。
 村山のはらわたは煮えくり返っていた。彼らに殺意さえ抱いていた。あんなやつらは生きている価値すらない。できることならば、この手でぶっ殺してやりたい。
 怒りで発狂しそうになりながらも、村山は必死で自分を抑えた。手を頬に当てた。ひんやりとして少し落ち着いた。
 冷静になるのだ、村山よ。だいいち、この私とこいつらじゃレベルが違うじゃないか。考えてもみろ。私は一流大学博士課程を優秀な成績で卒業したほどの秀才。会社だって一流企業。年収だって三十歳そこそこで、すでに一千万円以上。いわゆる将来を嘱望されたエリートではないか。
 一方、やつらは見るからに貧乏そうな家族。金がないから子供を作ることしか能がない。きっと大学も三流大学だろう。いや、高卒かも知れない。しかもあの様子じゃ、仕事もろくすっぽできないに決まっている。唾棄すべき連中なのだ。私が彼らに憐憫の情をもよおすことはあっても、憎む必要なんて微塵もないのだ。私は人生の勝者。やつらは人生の敗者ではないか。落ち着け、村山。落ち着くのだ。
 そう。私はエリートだ。あんな犯罪者同然のやつらに関わることはない。そもそも考えてみろ。エリートのおまえがグリーン車でもなく指定席でもない自由席なぞに座るからいけないのだ。どうしてせめて指定席に座らなかったのか。
 おまえの取った行動は、言ってみれば、鉄砲も持たずに、熊のうようよいる森に、のこのこと猟に出かける猟師のようなものだ。それで熊に殺されたからといって、おまえは熊を恨むのか? 違うだろう。鉄砲を持たなかった自分を責めるだろう。もし鉄砲を持っていなければ、熊に襲われない安全な場所に逃げ込むだろう。それと同じことなのだ。
 最下層の人間がうようよいる自由席に座ったおまえが悪いのだ。おまえはネギを背負った鴨だったのだ。鴨南蛮にされても仕方がないのだ。エリートであることを忘れてしまった自分を責めるのだ、村山よ。愚かな大衆にはなにも期待するな。それがエリートの宿命だ。そう。おまえはエリート中のエリートなのだから。

「もしもし」
 何者かが村山に声をかけたので、はっと我に返った。
 無意識のうちにこわばった表情をしていることに気づき、村山は必死で笑顔を作った。そして静かに顔を上げ、エリートらしく余裕の表情を作って言った。
「なんでしょうか」
 相手は車掌だった。車掌は怪訝そうな顔で村山を見ていた。
「大丈夫ですか?」
「は?」
 ふと周りを見渡すと、誰もいなくなっていた。村山一人がぽつんと座席に座っているだけだった。村山をさんざん悩ませたあの人生の敗残者どもは、いつのまにかいなくなっていた。
 車掌は心配そうに村山の顔を覗き込んだ。
「さっきからずっと、ぶつぶつ独り言をおっしゃっていたようでしたよ。気分が悪くなっているのではないかと周りのお客様も心配なさっていました。お加減でも悪いのでしょうか?」
「い、いえ。それより大阪駅はまだですか?」
 車掌は憐れむような眼をしてから、静かにかぶりを振った。
「もう終点の博多駅に到着してますよ」
 村山は転げるように新幹線を降りた。そしてすぐさまホームで携帯電話のメールを確認してみた。大阪で待ちぼうけを喰わされた上野部長からのメールが入っていた。

──もう二度と会社に来なくていいぞ──。

 村山はしばしのあいだ、茫然と博多駅のホームに立っていた。

(了)

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