夕刻、憂国
駅前にチェロ奏者がいた。
ヘッドホンでpublic image limitedを聴きながら大学へ急いでいた私だが、足を止めないわけにはいかなかった。
間近で聴くチェロの音色に聞き惚れていると、ふと気づく。
私以外誰も聴いてない!!!
ああ、この国にはもう足を止めて音楽を聴く余裕さえないのか!
後から人は来たが、爺婆のみ。
若い連中は皆どこかへ向かって急ぐのみだ。
これが利己主義の成れの果てだ。
効率や合理を追求すれば、芸術は唾棄すべき時間の無駄だろう。
だが本当にそうだろうか?
まず無駄とはなんであろうか?
無駄の反対は価値だ。
なら価値とはなんであろうか?
無駄を削って働くことが、価値となり得るのだろうか?
今の世の中、本当に価値のあるものがどれほどあるでしょうか?
お前らが大事に、音楽も聴けないほど大事にしてる「時間」ってやつは、SNSをスクロールすることに費やされてるんじゃないのか?
現代人は何が大事で、何が大事じゃないのかよく考えた方がいい。
いやあるいは、そんな事を考える余裕もないのかもしれない。
文明は発達すれど、人々の疲労は募るばかりじゃないか。
価値体系が崩壊した現代、混迷する人々に宛てはないのか?
闘うことを放棄した人々よ、つまりは敵を失った為に我々は腑抜けてしまったのだ。
日本人は皆半死半生だ。
目覚めをやり直せ。
すべての出来事が、まるで悪夢であったかのように。(オチが見つからないのでブラボで締める)
追記
書くのを忘れていた。
チェロ弾きの先、駅の構内。
そこでは「ちいかわマーケット」を催していた。
私はその光景を見て目を疑った。
なんと、ちいかわマーケットには長蛇の列が出来上がっていた。
連中、チェロより「ちいかわ」の方が圧倒的に大事なのだ。
私は確信した。
やはり我々は資本主義の奴隷であると。
あるいはあれは、唯物論者達の群れだったのだろうか?
嫌気が差すだろう?
もはや音楽に価値などないのだ。
物質主義に音楽が入り込む余地はないのでしょうか?
「なんか小さくてかわいいやつ」は「なんか美しくてここちいいやつ」に置き換えられないものか?
ちいかわマーケットでの悽愴たる惨状を見て、私は憂国するのであった。