知識と理解
一口に霊的知識あるいは真理といってもどこまで理解しているかは様々です。理解して目覚めることができたかどうかは本人にしか(最初は本人にも)わかりません。言葉で説明しようとしても目覚める前と後とで表現の仕方が変わるわけではありません。
よく自分で説明できなければ理解したことにならないと言われますが、霊的知識に目覚めるというのは、そのような理解のさらに奥に存在します。
「霊的真理は、単なる知識として記憶しているだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して初めて、それを理解するための魂の準備ができたことになります。」
健康で元気な若い脳にとっては知識(の記憶)=理解であると信じて特段疑わないと思いますが、年齢を重ねて思考が覚束なくなると、知識とは崩壊するものではないかと恐ろしくなってきます。色々な知識の断片がパラパラと剥がれ落ちるような、それらをつなぎ合わせてきた力が弱まってしまうような感覚に襲われます。人や物の名前が思い出せなくなるのもその現れだろうと思います。そう、知識、記憶は崩壊するものなのです。
しかし霊的知識の目覚め(真の理解)は実践を経て腹落ちすることなので、そのように崩壊してしまうことがありません。
「何もかもうまく行き、鼻歌交じりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて霊的知識を理解する素地ができあがります。そして、いったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮し始めることになるのです。」(「シルバーバーチの霊訓12」202頁)