ルポ「つけびの村」01/06 〜山口連続放火殺人事件の因縁を追う〜
2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。
第23回参議院選挙投票日の2013年7月21日。前月からの猛暑が続く山口県周南市・須金(すがね)・金峰(みたけ)地区の郷(ごう)には、この日も朝から強い日差しが降り注いでいた。そよ風すら吹いていないのはいつものことだ。8世帯12人が暮らす小さな山村は、周南市街地から16キロほどしか離れていないが、半数以上が高齢者のいわゆる限界集落になる。
隣の菅蔵(すげぞう)集落の田村勝志さん(仮名)は、集会場『金峰 杣(そま)の里交流館』で投票を済ませた。その帰りに声をかけて来たのは、義理の妹に当たる山本ミヤ子さん(79歳=当時・以下同)だった。彼女の夫は田村さんの弟にあたるが、先立たれ、一人暮らしをしていた。
「ちょっとコーヒーでも飲んで帰らんね」
縁側で一緒にアイスコーヒーを飲んでいると、隣の家からいきなり大音量でカラオケが流れ、そこに住む男の歌声が聞こえてきた。隣では最近、朝10時と夕方5時に、カラオケが始まるのだ。周辺に気を使って窓を閉めることもせず、窓を開け放ち、歌を集落中に響かせる。いつものことなので、驚くでもなく、田村さんは男が歌う昔の流行歌を聴きながら、コーヒーを飲み干して、山本さんと別れた。
帰りの道沿いにある、貞森誠さんと妻の喜代子さんが住んでいる一軒家を通り過ぎた。誠さんは71歳、集落の中では中堅の年齢だが、数年前から癌を患い、1歳年上の喜代子さんが自宅で誠さんの看病をしている。さきほどの男の歌声は、この家の前を通るときも聞こえていた。
山本さんはこのあと、同じ集落の石村文人さん(80)とラウンドゴルフに出かけた。いつもの日曜日。夜から始まる惨劇を、集落のものは誰も想像すらしていなかっただろう。
ただひとり、〝カラオケの男〟を除いては。
長閑な村の様相が一変したのはその日の20時59分。
「貞森さんの家が、真っ赤っかになっとる!」
さきほどの夫婦が住む家から煌々と火が上がるのを目撃した近所の住民は、慌てて119番通報をした。
ところが電話を切って外に出ると、もう一つ別の家が燃えていることに気がついた。
「山本さんの家も、メラメラ燃えとる」
別の住民が21時5分ごろ、石村文人さんに電話をかけた。だが応答はなかった。
集落では二軒の家の消火活動が行われ、22時14分、ようやく鎮火した。貞森さんの家からは誠さんと喜代子さんの遺体が、山本さんの家からはミヤ子さんの遺体が発見される。誠さんの遺体は足がもげていた。消防団が焼け跡をかき分け、片足を探した。
この2軒が燃えたことに、村人たちは皆「何かおかしい」と感じていた。ふたつの家は70メートルほど離れていて、間に燃えるものもないからだ。
「なんでこんなことに」
「放火じゃなかろうか」
集まった村人たちは口々にそう言い合った。とはいえ、翌日から現場検証が行われる。火災の原因もじきに分かるだろう。
投票場だった『金峰杣の里交流館』の、はす向かいに住んでいた吉本茜さん(仮名)から連絡を受けた河村聡子さん(73)は、吉本さんの家で一緒に消防団にお茶や水を出すなどの世話に追われていた。夫の二次男さんは、友人たちと愛媛に旅行へ行っていた。
「貞森さんの家族に連絡せにゃならんね」
吉本さんと聡子さんは、そんな話をした。
県警の緊急配備が解かれたのち、消防団が引き上げ、片付けが終わったのが1時半。日付はすでに変わっていた。それから家に帰り、風呂に入って寝る支度を整えてから、一階の居間で二次男さんに宛てて火事のことをノートに書き置きした。大変な1日を終え、聡子さんは二階の寝室に向かった。
だがその聡子さんも昼前に、遺体で発見される。遠方に住む娘が自宅を訪ね、二階に血まみれで倒れている聡子さんを見つけたのだった。夜から連絡がつかなかった石村さんも、その数分後、自宅を訪れた県警に遺体で発見される。すぐに、村の入り口に黄色いテープの規制線が貼られた。現場検証が始まる。
「2軒の火災による3人の死亡」が、「5人の連続放火殺人」に姿を変えた瞬間だった。
県警はこの時点で、昨晩から自宅におらず、連絡もつかない〝カラオケの男〟を重要参考人と睨み、その自宅を捜索。男の行方を追った。二台の車はガレージにある。遠くには行っていないだろう。
5人は全員、撲殺されていた。遺体に共通していたのは頭部の陥没骨折、そして足の殴打痕。加えて『口の中に何かを突っ込まれた』形跡があったことだ。
貞森さん夫妻と山本さん、3人の遺体は黒く焼け焦げ、確認のために山本さんの遺体を警察から見せられた息子は、どっちが頭なのか足なのか分からなかったほどだという。のちに司法解剖が行われ、頭蓋骨の陥没骨折や、顔に皮下出血が認められ、頭部や顔を鈍器のようなもので激しく殴られて殺害されたことがわかった。
石村さんの遺体にも同じく、後頭部や膝の裏を激しく殴打された痕が見られた。口の中にも損傷があり、何か棒のようなものを突っ込まれた形跡があった。
聡子さんも同様だ。首の後ろを激しく殴られたことが致命傷とみられている。その口の中は血まみれで、前歯が折れていた。
「家で寝ちょったら殺されるかもしれん」
連続殺人であることを悟った村人たちは怖がった。県警は、さらなる犠牲者が出ることを防ぐため、村人たちを投票場だった『金峰杣の里交流館』に避難させる。そこで寝泊りを始めた村人たちにとっては、参院選の投票結果など、最早どうでもよいことになっていた。集会場の外では投入された県警の捜査員約400名が村中を周り、男の行方を探し続けている。村の入り口に張られた規制線の外には、おびただしい数のテレビ中継車が並び、上空には報道ヘリが飛び交っていた。
一度に5人が殺害されるという大事件が発生した村には、地元だけでなく東京からも多くの記者が詰めかけたが、そんな彼らが何よりも注目したのは、〝カラオケの男〟の家のガラス窓に貼られた不気味な『貼り紙』だった。
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」
山口県周南市金峰(みたけ)で21日夜、全焼した民家2軒から3人の遺体が見つかり、翌22日に別の民家2軒から新たに2人の遺体が見つかった事件で、火災現場で見つかった3人はいずれも頭部に外傷があり、ほぼ出火と同じ時刻ごろまでに死亡していたことが、司法解剖の結果わかった。県警は、3人が殺された後、放火されたとみている。
県警は22日、5人が殺害された連続殺人・放火事件と断定し、周南署に捜査本部を設けた。県警は同じ集落に住む男が何らかの事情を知っているとみて、自宅を殺人と非現住建造物等放火の疑いで捜索した。男は行方がわからなくなっている。
全焼した山本さん宅の隣の民家には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と、放火をほのめかすような貼り紙があった。(2013年7月23日 朝日新聞朝刊)
14人が暮らす集落で5人の遺体が次々と見つかった。携帯電話も通じない、山口県周南市の山間部で起きた事件。「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」。全焼した民家の隣に住む男は所在不明で、自宅には放火をほのめかす貼り紙も残る。「家族のよう」と言われる山里で、何が起きたのだろうか。(2013年7月23日 四国新聞朝刊)
警察は山本さんの住宅の隣に住む男が、2つの住宅に火をつけた疑いがあるとして、殺人と放火の疑いで男の自宅を捜索しました。
その際に室内から外に見える形で窓に貼り紙があり、紙には「つけびして煙り喜ぶ田舎者」と書かれていました。
男は、現在、行方が分からなくなっていて、警察は貼り紙の内容が放火への関与を示すものとみて、男の行方を捜査するとともに、一連の事件との関連について調べています。(2013年7月22日 NHKニュース)
村の3分の1以上が殺害され、姿を消した男の家には不気味な貼り紙。「平成の八つ墓村」などとネットでも騒がれ始めた。まさか自分の村がこんな言われようをするとは、村人たちは前日まで誰も考えたことすらなかっただろう。
事件発生から4日が経った7月25日。警察は山中で男の携帯電話や、男性用のズボン、そしてシャツを発見。さらにその翌日朝、発見現場付近を捜索していた機動隊員が林道沿いで男を見つけた。Tシャツとパンツの下着姿で、靴も履いていない。
「ホミさんですか?」
近づきながら機動隊員が声を掛けると、男はその場にしゃがみ込み言った。
「そうです」
抵抗することもなく県警の任意同行に応じ、逮捕されたその〝カラオケの男〟は、郷集落の住民の一人、保見光成(ほみ こうせい)(当時63歳)という。
その後、県警は山中で、側面に「ホミ」と彫られたICレコーダーを発見した。息を切らしたような雑音の中、こんな言葉が録音されていた。
「ポパイ、ポパイ、幸せになってね、ポパイ。いい人間ばっかし思ったらダメよ……。
オリーブ、幸せにね、ごめんね、ごめんね、ごめんね。
噂話ばっかし、噂話ばっかし。
田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない。
お父さん、お母さん、ごめん。お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、ごめんね。……さん、ごめんなさい……。
これから死にます。犬のことは、大きな犬はオリーブです」
保見光成の家のガラス窓にあった、この貼り紙。
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」
県警が保見を捜索している段階から、これは〝カラオケの男〟による犯行予告なのではないか、と騒がれていた。「放火をほのめかす貼り紙」「不審なメッセージ」などと、テレビや新聞は何度も取り上げた。
だが、それは決意表明でもなければ犯行予告でもなかったのである。
金峰行きの経緯
そのことを知ったのは、事件から3年半が経った2017年1月。取材のために金峰地区を訪れたときだ。
私は東京で週刊誌の記者として稼働しながら、主に殺人事件の公判を取材するフリーライターとして活動していた。取材に出向くひと月前、ある月刊誌の編集者が『山口連続殺人事件』について改めて取材して記事を書いてみないかと声をかけてくれたのだった。
すでに保見は5件の殺人と2件の現住建造物等放火で起訴、山口地方裁判所での一審公判も、広島高等裁判所での控訴審も判決が言い渡されており、事件は最高裁に係属していた。このときも、今もである。
逮捕当初こそ「殺害して、その後、火をつけた。私がやりました」と犯行を認めていた保見は、2015年6月25日、山口地方裁判所で開かれた裁判員裁判の初公判でこれを翻し「火はつけていません。頭をたたいてもいません。私は無実です」と無罪を主張した。
大量殺人を犯したとされる被疑者は、精神的な問題がないかを起訴前に鑑定し、問題がない、つまり事件当時に完全責任能力を有していたと判断されたのちに起訴されるという流れが出来ていた。この鑑定を起訴前鑑定という。さらに起訴後の公判前整理手続という非公開の手続きにおいて、争点が責任能力であるとなれば、改めて精神鑑定が行われることになる。これを本鑑定と呼ぶ。
保見に対しては一審が開かれる前に、この2つの鑑定が行われた。起訴前鑑定では事件当時の保見は「完全責任能力」があると判断されたが、起訴後に本鑑定が行われ『妄想性障害』と判断されていた。
これをもって、一審公判で弁護側は責任能力について「心神喪失」もしくは「心神耗弱」を主張した。それに加えて保見は放火も殺人も、自分がやったのではない、と、犯人であること自体を否認したのである。だが同年7月28日の判決公判で山口地裁は保見に「死刑」を言い渡した。『妄想性障害』は認めたが、完全責任能力は有していたという判断だった。また放火も殺人も、犯人は保見以外に考えられないと認定された。
妄想性障害をめぐる責任能力については、山口地裁は判決で次のように述べている。
「鑑定人によると、被告は両親が他界した2004年ごろから、近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった。こうした妄想を長く持ち続けており当時、妄想性障害だったと診断できる。『自分が正しい』と発想しやすい性格傾向と、周囲から孤立した環境が大きく関係し、妄想を持つようになった。
この鑑定は合理的であり、これを基に責任能力を検討すると、被告が当時、自己の行為が犯罪であるという認識を十分有していたことは明らか。凶器となる棒を携えて各被害者宅を訪れ、殺害後に自殺しようと山中に入っており、善悪を認識する能力も、その認識に基づいて行動する能力も欠如したり、著しく減退したりしていない。被告は当時、完全責任能力を有していた」
保見はこれを不服として即日控訴。2016年7月25日、広島高等裁判所で控訴審の第一回公判が開かれたが、弁護側の請求証拠はすべて却下されて即日結審し、同年9月13日、控訴棄却。その翌日、保見側は上告した。
判決では本鑑定の結果に基づき「近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった」と認定されているが、これには疑問があった。事件発生当初から、保見は集落の村人たちから〝村八分〟にされていたのではないかという疑惑があったからだ。
金峰の郷集落で生まれ育った保見は中学卒業後に上京し、長らく関東で働いていたが、90年代にUターンしてきた。しかし村人たちの輪に溶け込めず「草刈機を燃やされる」「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたのだと『女性セブン』(小学館)2013年8月15日号は報じていた。また被害者のひとりである貞森誠さんが、かつて保見を刺したことがあるという、気がかりな情報もあった。「みんな仲良しなのに、1人だけ浮いた存在」。保見の逮捕直後、新聞のインタビューに近隣住民がこうも語っていた。
保見はICレコーダーに「周りから意地悪ばかりされた」と吹き込んでいたが、これは妄想などではなく、本当なのではないか――。
そのようなことを思っていたが、この時の目的は少し違っていた。私に声をかけてきてくれた月刊誌の編集者は、金峰地区における〝夜這い風習〟について取材をしてきてほしい、と頼んできたのだ。彼は私にある記事を手渡した。
それは『週刊新潮』2016年10月20日号(新潮社)に掲載されていた山口連続殺人事件にまつわるものだった。あるジャーナリストが、広島拘置所に収監されている保見に面会取材を行い、逮捕当時に大きく報じられていた「村八分」の発端となる『ある事件』について話を聞いたというのだ。
読めば、金峰地区には〝夜這い〟の風習があり、戦中に一人だけ徴兵を免れた村人が、女たちを強姦してまわっていたという。そして、この村人が保見の母親を犯そうとしたとき、それを止めて追い払った人物が、保見光成と二十歳近く年の離れた実兄なのだ、と。
「これを、ちょっと行って来て、確かめてもらえる?」
とその編集者は言う。
私は保見の公判を傍聴に行きたいと一審の当時思っていたが子供が産まれたばかりだったため、長期間家を空けることができず、諦めたという経緯があった。編集者とはその話も過去にしていた。おそらくそれを覚えていて、話を振ってくれたのだろう。二つ返事で引き受けた。
とはいいながらも、取材を終えてその結果を世に出せば、世に出ている記事の検証取材であるから、ややこしいことになる、という予感は最初からあった。しかも取材の目的が「金峰に夜這いの風習があったかどうか、確かめる」というもの。行くとは決めたものの、多忙な夫に子供を預け、遠路はるばる山口県周南市の山奥まで出向き、夜這いについて村人に話を聞いて回る……。
「夜這いの取材かぁ……」
ノートパソコンを開いて取材前の情報収集をしながら、年末の夜中にリビングでひとり思わず呟いてしまった。この21世紀に夜這いの取材。ちゃんと話が取れるのかと不安になる。だが引き受けたからにはやらねばならない。それに件の記事には、保見への〝いじめ〟は存在し、その発端が戦中の〝強姦未遂事件〟であると記されているのだから、それを確かめることは、一応〝いじめ〟に絡む取材ではある。西に向かう新幹線の中で私は腹を決めた。
民俗学者らの文献や、伝承ものの書籍には、夜這いについての記述はいくつもある。宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)に収録されている「土佐源氏」は現在の高知県檮原町で〝乞食小屋に住む元ばくろうの老人〟から聞き取った昔話で構成されているが、この老人の父親は、母の〝夜這いの相手〟だった。同じく同書収録の「世間師」では、宮本の故郷である周防大島でふたりの老人から聞き取りを行っている。このうちひとりは長州征伐のあった1865年に14歳だったという男性だが「戸締りが厳重になったため、娘のところへ夜這いに行けなくなってしまった」とある。
同じく民俗学者の赤松啓介は『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(ちくま学芸文庫)で実際に様々な村へ足を運び、時に村のコミュニティに入り込んで、夜這いについて聞き取りを重ねている。また、ともに夫の転勤で徳山に来たという向谷喜久江・島利栄子によって記された『よばいのあったころ 証言・周防の性風俗』(マツノ書店)では、山口における夜這い文化について、老人たちに聞き取りを行なっているが、ここには「山間部の部落には、若衆宿が、昭和の初めごろまであった」とある。若衆宿とはその集落で一定の年齢に達した男子たちが集まる場所で、規律や生活上のルールに加え性的な事柄も伝えられていた一種の教育施設だ。こうした文献に照らせば、金峰地区にかつて夜這い文化があったとしても全く不思議ではない。だが戦中まで、となるとどうか。
(続く)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?