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【一幅のペナント物語#38】ニッポンの日没の聖地「日御碕」

◉地元の人間ほど、地元の観光リソースのことを詳しく知らない、なんてことは多々あるようだ。今回紹介するペナントは僕の地元の観光スポットのひとつがモチーフになったもの。左側のグリーンの円の中にデン!とそびえる「出雲日御碕灯台」。陽の光にきらめく白亜の灯台をシルバーのラメを使ってうまく表現している。それと対比させるかのように「日御碕」の立体的な文字にはたっぷりとゴールドラメが施されている。この「国立公園日御碕」や「NATIONAL・PARK★★HINOMISAKI★★」の表記、これもペナント"あるある"のひとつで、「大山隠岐国立公園」に含まれているというのが正しい。当時はこうした"国のお墨付き"が、観光地としてのステイタスを上げていたので、どこかにそう書いておきたくなる気持ちは解る。

◉右側のさきっちょスペースの岩場の絵は、なんとなく周辺の雰囲気を描いたのだろう。これに該当するような名所史跡は見当たらない。逆に灯台の周りを飛ぶ「ウミネコ」のほうが日御碕の名物だろう。1922年(大正12年)に日本で最初にウミネコ繁殖地として国から天然記念物に指定されている(青森の蕪島と同時)。このウミネコ、カモメの仲間の珍しいやつだから、天然記念物とかになっていると思ったら、全然違っていた・・・。

左がカモメ、右がウミネコ(『鳥害タイムズ』エドバンコーポレーションHPより転載:下記)

どうやら、普段いろいろな港町や海辺で僕らが見かけているのは、ほとんどウミネコのようだ。もちろんウミネコも学術的には"チドリ目カモメ科カモメ属"なので、カモメと呼んでもいいのだろうが、本当に「カモメ」と名付けられた種は渡鳥なので、日本ではあまり見られない鳥のようだ。いやー・・・今の今まで知らなかった。皆さん、知ってた?(汗)

◉気を取り直して、灯台のほうだが、こちらは1903年(明治36年)にALL日本人のスタッフによって建設された灯台で、日本古来の築城技術を採り入れていることでも高く評価され、1998年(平成10年)には国際航路標識協会 (IALA)によって「世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選(世界の灯台100選)」にも選ばれている。日本からは5つの灯台が選ばれており、なんとそのうちの2つが島根県の灯台という、実に鼻タカダカ案件なのだ。さらには同じ年に海上保安庁が募集した「あなたが選ぶ日本の灯台50選」のひとつにも選ばれた。

◉塔高43.65mは日本一と言われており、その上国内で16カ所しかない"昇れる灯台"のひとつでもある。メジャーな出雲大社参拝とセットで回る人は多いようだが、てっぺんまで昇る人は少ない。「灯台の中の灯台」と呼んでも差し支えない特A級の灯台なので、迷わず昇って欲しい。もちろんエレベーターなどないので螺旋階段をひたすら昇っていくことになるが、晴天の日など最上部の展望デッキに辿り着いた時の爽快感は極上だ。降りる時は、昇る時以上にスリル満点である(最近、スリル満点とかも死語かな?)。

◉最後にペナント内に書かれている「東洋一」について。いまだに、どう解釈していいのか分からないままなのだけど、ここに探究をされた方のブログ記事を発見したので置いておく。この表現もまた「国立公園」同様、高度経済成長に日々邁進した日本人にとってのステイタスワードだったのだろう。

「東洋一の〇〇」と誇るようになったのはおよそ、明治初期ごろから。福沢諭吉や夏目漱石の書物にその記述があります。著者が調べたデータベースによると、朝日新聞の見出しになった「東洋一」は、戦前の昭和初期から登場していますが、戦争中の1942-1948に一時消滅。戦後に復活し、「もはや戦後ではない」と言われた1955(昭和30)年代に急増します。(中略)オイルショックの1973年を境に、その「東洋一」の見出しは日本国内ではなく、韓国、シンガポール、香港などに建てられたものに移っていくのです。やはり、私の「東洋一とは戦後の経済成長期に増殖した言葉」という仮説は、間違いではなかったようです(さらに、バブル期からは「世界一」に取って変わられていく)。

『1970年生まれ男のロマンBlog』「もはや死語?「東洋一」の謎」より


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