女性差別を避けうる女性
京都大学・理学研究科が行った教員公募の顛末が物議を醸している。
2022年1月27日付で女性限定の公募が出され、同年10月1日に採用された当人がTwitterで着任を明かした。
めでたしめでたし――となっていないのは、『その方が“トランス女性”だから』のようだ。
◆長めの前置き
内容に進む前に、事実関係などを明らかにしておく。既に経緯をご存知という方は上の目次から『◆本論』に飛んで頂いて構わない。
⚠注意⚠
本稿は、この件についてああすべきこうすべきと改善案を示すものではない。端的に言えば『どう頑張ってもどこかしら差別になるのでは?』と示すに留まっている。筆者にはどれが正しいとも言い切れなかった。
そういう意味で、筆者としてはトランスに害意を向けているつもりはない――が、『結局トランス排除じゃないか』と取りうる要素は含んでいるし、また様々な意見を書き留める都合上、性別不合やトランスジェンダーの当事者に攻撃的な考えも紹介はすることになる。
ご注意の上、不安な方は避けて頂きたい。
事実関係の確認
○採用された方について
冒頭では“トランス女性”という、少々問題のある表記をした。ご自身が自らを指して “「女性限定公募で採用されたトランス女性」” と書いているので引用させてもらったものだ。が、この方は既に性同一性障害特例法に基づく戸籍変更を済ませている。
つまり、女性だ。以下ではこの方のような属性を、区別する必要がある文脈では『戸籍変更した女性』と表記するが、原則は単に女性として扱う。法的に女性であることは間違いないのだから。
○公募の条件について
京大の募集要項にあった性別に関する要件は、“女性であること” だけである(つまり『戸籍変更した女性は除く』のような限定はされていない)。
○京大の見解について
2022年9月25日、読売新聞が京大教員の男女比率について取り上げている。
⚠以下、排他的な思想も含むので注意⚠
賛否の紹介
○批判的な声
採用された方個人や、その決定をした京大を批判する声の代表的なものは、『その席には生得的な女性がつかなくては意味がない』『男がそれを奪った』的な論調である。
このような意見には共感する声も少なくないようだが、採用された方を女性と認めていないような言説が多く観察された。
それは明らかに問題だ。法を無視しているので。
○肯定的な(問題視しない)声
その通りではある。
『女性限定公募で女性が採用された』、それだけなのだから“なんら問題ない”というわけだ。
またこの見解は別の理由からも支持される。
性自認至上主義――『手術などを要さず自認のみで、扱われる性を変更できるように』という方向性――には、筆者もはっきりと反対だ。
この見地からも、戸籍変更した女性を女性として扱わないことは大いに問題である。
○整理
これらの議論を眺めて以下のような印象を抱いた。
批判派は多くが怒りや失望を抱いている。
対する問題なし派には理がある。冷たい思考に基づけばこちらが正しく、現行法もこちらの味方だ。
でも批判派にも共感はできるしなぁ……。
というわけで、批判派が備える(情理以外の)理を自分なりに書き留めておこうと考えた。Twitterで質問を頂戴したからでもあるが。
前置きが長く申し訳ない――ようやく主題に手をかけられる。
◆本論
まずはっきりさせておくが、論点は『戸籍変更した女性は女性か否か』ではない。戸籍変更した女性は女性だ――少なくとも採用や就職の場では、そう扱われる権利を有する。ここを揺るがすつもりはない。
問いたいのはそこではなく、『戸籍変更した女性と生得的な女性が、次に挙げる前提に照らして、平等か否か』である。
比較の前提
そもそも、戸籍変更した女性を含める含めないに関わらず、女性限定公募は(広い意味で)差別的だ。男性を排除している点で。
しかし男性差別と批判するつもりはない。現に就労状況には(男性優位に傾いた)男女格差があることを踏まえ、わざと逆(女性側)に傾けてバランスを取ろうという施策だからだ。結果的に差別が是正ないし軽減されるならば、男性が排除されることは理解できるし法にも適っている。
――差別が是正ないし軽減される、ならば。
言い換えれば、『生得的女性が直面する“均等な機会及び待遇の確保の支障”に、戸籍変更した女性も等しく悩まされているのか』という問いである。
等しく困るのなら、戸籍変更した女性を採用することも“支障となつている事情を改善”する措置にあたるから、5条に反する行為(=女性限定採用)は8条を根拠に認められるだろう。
もし戸籍変更した女性だけがこの“支障”を避ける道があるなら、その女性の採用は“事情を改善”しない。被差別者(=生得的な女性)以外を支援しているからだ。同時に、男性を排除することの合法性も揺らぐ。
女性差別を避けうる女性
では、『生得的女性が直面する“支障”』とは何か。前掲の記事から再度引用する。
女性に対する偏見を原因とする京大の問題認識は、筆者も妥当と考える。
人事の決定権を握っている主体が『女性は$${X}$$だ』というネガティブな偏見を持っているとする。
このようなハードルにキャリアを阻まれた時、女性が乗り越えるのは容易いことではない――実際の女性一般に$${X}$$な傾向があろうとなかろうと、またその女性個人が$${X}$$であろうとなかろうと。その理不尽が当事者各自の努力で覆しがたい(ことを京大も認めた)からこその、女性限定公募のはずだ。
この偏見は女性一般を等しく阻むものだ――が、戸籍変更した女性であれば、八方塞がりにはならない。選びたいかは別として、戸籍変更した女性には有効な手立てがある。
それは生得的な女性には採れない方法。
『私に$${X}$$という心配はあてはまりませんよ、だって私は元男性ですから』だ。
いわゆるカミングアウトである。
これは偏見の問題であって法令の問題ではない。
『女性は$${X}$$だ』という偏見を持った決定権者がカミングアウトを受けた時、『既に戸籍変更していて法的に女性なのだから、この人も生得的な女性と同じように$${X}$$なはずだ』と考えるだろうか?
あるいは書類選考のような場面を想定した時、2人の女性から応募があり片方にだけ『戸籍変更済みの元男性』と記載があったら、両者を先入観なく横並びに見てくれるだろうか?
筆者は疑わしく思う。もっとファジーに、感覚的に、法以外の観点から『$${X}$$だ』との偏見を付け外しするだろう。
(『権限持ってる人が偏見まみれな職場の差別ってこういうことだよね』と現状を描写したまでであって、これが正しいなどとは全く思っていないので誤解なきよう)
スポーツに喩えるなら、大半が何らかの重りを背負って競う中、一部の選手だけがその重りを捨てる選択肢を持っている状態。その選手が男だろうが女だろうが不公平だ。
捨てることを許されないなら、他の選手はきっとこう求める。『あの選手にも重りを捨てさせるな』と。
スポーツならばそういうルールを設ければ良い。
――しかし。
現実ではそれが難しい。
確かにカミングアウトを強いてはならない。それは承知している。禁じてはならないことも含めて。
筆者が指摘したいのは、『周りに知る術がないこと』ではなく『当人だけは明かす選択肢を持つこと』の方だ〔末尾に補足あり〕。
カミングアウトをするかしないかは本人が決める。選べる。そのことが、女性ならば不可避の偏見を避けうる可能性を持っており、しかもそれがルールで禁じられることも(当面は)ない。
すなわち、女性差別を避ける選択肢を持った女性という立ち位置になる。
女性への偏見に関与しえない選択
上記を踏まえて、じゃあどうすれば良いのかと考えた時に――明確な答えは持っていないが――『ゴールの設定次第』ということだけははっきりしている。
次のコメントは、批判派の中で多く拡散されたものの1つだ。
数字の上では――あるいは法的定義では――女性比率は上がる。戸籍変更した女性でも生得的な女性でも。
しかしそれでは数字を高めているだけで実質的解決になっていないという批判だ(指標にした数字が増えても問題解決に繋がらないなら、教員に占める女性の比率を指標にしたことが間違いと言える)。
では実質的な問題(女性への偏見と差別)にどう取り組むか。
読売の記事には残念ながら偏見の解消方法が明示されていない。好意的に読めば次の箇所がそれにあたるだろうか。
偏見を取り除く必要があるとはいえ、上層部や管理職を洗脳して回るわけにもいかない。技術面と倫理面で許されるならそれが一番手っ取り早いのだが。
なのでそちらはひとまず後回しにして、強いるような形をとってでも女性比率を先に上げてしまおうと。これは『女性比率を上げさえすればそれで良い』という論理ではないはずだ。女性比率を上げることで――それを契機・手段として――本丸にあたる女性への偏見を切り崩そうという見通しでなければ、“偏見を取り除く必要性” という問題認識に結びつかない。
女性が増えれば偏見もなくなるとは断言できないが、女性が極端に少ない環境のまま女性への偏見をなくすことが難しいのは確かだろうから、まず比率を上げるという手段も理解はできる。
そう、これは偏見の問題であって法律の問題ではない(2回目)。
『女性は$${X}$$だ』と思い込んでいる人の前で、実際に女性が$${X}$$でない様や、複数の男女の$${X}$$加減が可視化されれば、偏見が多少マシになることも期待できよう。
が、それは偏見の持ち主が相手を女性と思っていればの話だ。
もし先に、『私に$${X}$$という心配はあてはまりませんよ、だって私は元男性ですから』とカミングアウトが済んでいたら、『女性は$${X}$$だ』が揺らぐとは考えにくい。どんなに$${X}$$と対極でも『(元)男性だから』で説明できてしまうからだ。
つまりカミングアウトして女性への偏見から解放された立場は、その数や比率が高まったところで、女性への偏見を緩和させる効果を期待できない。
……このこと(だけ)から考えると、『法的に女性であろうとなかろうと、周囲に女性であると信じさせること』が募集条件になってしまう。そんな条件が無茶苦茶なのは分かり切っているので、どうすべきかという結論は見出せていないのだが。
◆補足事項と要約
誤解されやすい内容と自覚しているので、言い訳じみた補足を4点。
○補足1
『戸籍変更した女性はカミングアウトすればあらゆる差別から解放される』などとは述べていない。女性への偏見を回避できてもトランス特有の差別には遭うだろう。
京大の女性限定公募はトランス差別への対策とは考えにくいため、本稿では女性が体験するものに的を絞っている。
○補足2
『カミングアウトによって女性への偏見を回避しうる可能性』は、原則的に構造の問題であって、当事者個々人が責を負うものではない。
個人攻撃が建設的な結果に繋がるとも考えにくく、筆者はそのような言動を支持しない。
○補足3
そのようなカミングアウトは『選びうる』というだけで『実際に選択されるか』について客観的な検討はできていない(探してはいるが、統計調査など取りうるのだろうか……)。京大の件に限れば、採用された方は隠していないという事実がある。
○補足4
3と同様に、『MtFとカミングアウトすることで本当に女性への偏見を回避できるのか』と問われても統計的な証拠はない。
ただし、『法的に女性であることは心情的な女性扱いを保証しない』ことまでは証明不要と考える。お手軽に観察できるのはTwitter等の議論だが、日常生活においても他者の法的性別など意識する機会は多くないだろう(その必要がある職業の方々は除く)。
○本論の要約
戸籍変更した女性は女性として扱われるべきである。が、女性への偏見から逃れうる選択肢を持つ。生得的な女性は持ち得ないものだ。
女性限定公募は、女性が現に受けている差別的待遇を踏まえた是正的差別である。
差別的待遇から逃れうる人が採用されたのでは男女格差の是正にならない。女性は救われず、男性は故なく排除される。
『それでも女性だから採用して良いんだ(女性差別の放置と男性排除)』とするか『女性だけど目的に適わないから排除(トランス排除)』とするか、あるいは『採用するけどカミングアウト禁止(トランスの権利縮小)』や『女性限定採用をやめる(女性差別の放置)』とでもするのか、筆者は結論を持っていない。いずれもメリット/デメリットはあるだろうし、どれを選ぼうと何らかの形では差別なので、『差別だから許されない』だけでは何にもならない(※)。
法律は主に禁則を定めるのみであって、どの差別を選び取るべきかの指針にはならない。本件に法的な問題が無いと仮定しても、だから何の問題も無いと拡張するのは短絡的である。
以上
(※筆者は、『あらゆる差別を一切許さず完全に根絶すること』を現実的な目標と捉えていない。詳しくは別稿にて)
Twitterだと書ききれないことを書く