犯罪者呼ばわりという人権軽視
言うまでもなく、基本的人権は所与のものである。生まれたての赤ん坊でも寝たきりの老人でも、基本的人権は等しく持っている──たとえ凶悪な犯罪者でも。
ただしこの原則を例外なしに適用すると犯罪者が野放しになってしまう。国民の安全や安心も守らなければならないので警察や司法は必要で、しかしこれらは“劇薬”だ。
行き過ぎれば“治安”などを名目に国民の人権を侵害してしまう──というより、刑務所や少年院に閉じ込めることは明らかに居住の自由などを制限している。それを“人権侵害”と呼ぶこともできるだろう。
安全等のためにやむを得ずそうしている(そうすることが認められている)だけで、刑罰は常に人権の問題と隣合わせである。
もちろん『やむを得ず』の一言で人権侵害が許されては堪らない。幾らでも拡大解釈されてしまう。
だからそうならないよう、『■■という行為をした者には●●という人権制限を課す』というリストが作られた。これが刑法という体系であり、刑罰を適用するかどうか決めるのが刑事裁判だ。
つまり刑事裁判を経ていない犯罪者扱いは、単なる(許されざる)人権侵害だと拒まねばならない。そんなことが許されるなら怪しいというだけで罰されてしまう。
……にも関わらず、刑事裁判になったことがない(起訴されたことすらない)ジャニー喜多川氏は完全に犯罪者扱いされており、そのような言説はSNSだけでなく大手メディアにも溢れている。
法の支配という観点からは憂うべき状況だ。
性加害があったか否か、客観的には未確定なのに犯罪者と断定してしまっている。『疑わしきは罰せず』の原則に反する。
その不当な批難を“社会的制裁”と称する人もいるが、それは結局のところ私的制裁──憲法違反である。
以下、順に検討していく。
⚠ 注意 ⚠
筆者は性加害が有ったか無かったか知らないし、有っても無くても本稿の主張は変わらない。客観性とそれを担保する手続きの問題である。
◆事実扱いするロジックとその誤り
ジャニー喜多川氏について、“生きていたら「執行猶予なしの10年前後の懲役刑」”とするタイトルなどは思い切り決めつけているが、その記事の中身は仮定の話である。
もしジャニー氏が存命中に性加害が刑事事件として立件され、裁判で有罪となった場合、おおよそどういった刑罰になるのか。
『もし有罪判決を受けていたら』、『最高でどれだけの刑罰が考えられるか』という本文に対し、随分と煽ったタイトルだ。
……その方が耳目を引いてクリック数は稼げるのだろう。
筆者はマスコミの自浄にあまり期待していないし関心も薄い。ほとんどは商売でやっているのだから関心経済の論理から脱することは難しいだろうと考える。
しかしそれ以外の、例えば大学教授や経営者団体の長などが、公然と氏を犯罪者扱いするのはどんなロジックに基づくのか。そしてそれらがどう間違っているのか。
まずその辺りを検討する。
□『裁判で真実性が認められた』
氏を犯罪者扱いする(してもよいとする)論拠として、文春との民事訴訟が挙げられることがある。
〔1999年の『週刊文春』の記事〕に対し、ジャニー氏とジャニーズ事務所は名誉毀損訴訟を提起したものの、東京高裁は2002年に「性加害」の真実性を認める判決を言い渡した〔略〕。
しかし、少年たちへの「性加害」の真実性が裁判で認められたのにもかかわらず、ジャニー氏は刑事的責任に問われることなく〔略〕
上の引用部では、『裁判所が真実性を認めた以上は刑事的責任が問われるのが自然である』かのような前提を踏まえているが、これは全く話が繋がっていない。
文春との裁判およびその判決は、ジャニー氏が性加害を行ったか否かには一切言及していないものだ。というより最初から検討さえしていない。
元々の訴え(文春の記事を名誉毀損とする事務所からの訴え)と無関係だからだ。
(名誉毀損)
第二百三十条
公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。〔略〕
事務所側は文春の記事が名誉毀損だと訴え、文春側はこれを否定した。双方の主張が噛み合わないため裁判所が判断や命令を下した。
その判断に“事実の有無”は関係しない。判決に関わらないから裁判所はいちいち調べていない。調べていないことに言及するわけもない。
文春の記事が“公然と事実を摘示”したものであり、かつジャニー氏の“名誉を毀損した”ことまでは間違いない。ないが、文春は以下の特例にあたると主張した。
(公共の利害に関する場合の特例)
第二百三十条の二
前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。〔略〕
平たく言えば『警察の目を逃れている犯罪行為を止める為の告発などにおいて、ある条件を満たす場合にのみ、相手の名誉を毀損してもその罰を免れる』といった定めだ。
問題はその条件である“事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、”の部分。
この裁判で認定された『真実性』については、次のような事例を比べると分かりやすい。
A氏がB社に、『X氏から性加害を受けた』という情報提供を行ったとして──
A氏からの情報は具体性がなく前後の整合性を欠き、B社が調べられた範囲でも疑わしいことが分かった。しかしB社はこれを記事にした。
A氏からの情報は具体的で整合性があり、B社が調べられた範囲では疑わしい点が見つからなかった。だからB社はこれを記事にした。
──誰が見ても1.のB社は悪質だろう。真実性が無い。
逆に2.の想定ならB社の告発を責められようか。2.まで罪としてしまったら告発などできはしない。だから“公共の利害に関する場合の特例”として免責される、その定めが第二百三十条の二だ。
そして『真実性認定』とは、『1.ではなく2.と認める』だけの内容である。犯罪行為の有無になど一切触れていない。
よってこの判決は、氏の性加害行為があったとする根拠には不充分ないし的外れである。
□『“第三者委員会”が事実認定をした』
座長の方が“第三者委員会だと思ってもらって構わない”と発言しており、“第三者委員会”と通称されることも多いようだが、後述の理由によりそれにならうことはしない。 本稿では正式名称である『外部専門家による再発防止特別チーム』として扱う。
特別チームは確かに次のステートメントを出した。
1970年代前半から2010年代半ばまでの間、多数のジャニーズJr.に対し、長期間にわたって広範に性加害を繰り返していた事実が認められた
またこのチームは設置された際の会見で次のように述べている。
いずれも、ジャニーズ事務所とはこれまで関係を一切有していません
事務所側と接点が無かったことはもちろん重要だ。利害関係にあれば事実関係の調査結果が歪むおそれがあるから。
そしてもちろん、双方に対してそうでなければ意味が無い。“第三者”に期待されるのは客観性や中立性であって、係争中のどちらか片方に寄り添うことではないはずだ。
しかしこのチームのスタンスはというと──
喜多川氏による性加害が起きたことを前提に、事務所の過去の対応、ガバナンスの問題点を厳正に検討していく
──これである。中立性など最初から無いと認めているわけだ。
だから筆者はこれを“第三者委員会”と呼ばないことにしている。
かといって、無意味だとか捏造だとか言いたいわけではない。外部チームによる事実認定は、恐らく事務所側も必要としたものだからだ。
『事実』とは相の異なる、『事実認定』が。
□『事務所が認めてる』
少なくとも外部の視点からいくと、性加害の有無は今のところは闇の中である。警察や検察がノータッチなのだから有ったと言える根拠が無い。
(当事者の会が刑事告発の意向とのニュースもあり、そのような裁判が行われれば明らかになるかも知れないが)
現時点では『あったかも知れないし無かったかも知れない』。事実性は不確かである。
これを踏まえて話を進めよう──不確かだからで終わらせるつもりはない。
刑事罰という側面では先述の通り『疑わしきは罰せず』だ。これを崩すことにはあまりに多くの問題がある。
しかしだからといって被害者が泣き寝入りしなければいけないわけではない。刑事ではなく民事、すなわち『当事者間の交渉や妥結』を目指すなら、事実は必ずしも明らかでなくて良いからだ。
民事などというと堅苦しいので、家族間などの日常的ないさかいを想定して欲しい。
Cが大切にしている食器が割れてしまった。CはDが割ったと言い、Dはその事実を否定した。
この時、Dが割ったか否かをいちいち警察に調べてもらいはしないだろう。事実は(第三者からみれば)闇の中である。
それでも、落ち込んでいるCのために新しい食器を探したりプレゼントしたりは可能だ。同じものは手に入らなくても何らかの弁済はできよう。
Cを元気づけるために必要なら、Dは『割ったのは自分じゃないんだけど』と思いつつ謝ったりお金を出したりするかも知れない。
この時に必要なのは事実ではなく事実認定だ。Dは割っていてもいなくても(この路線でCD間の和解を図るならば)割ったと認めなければCの慰撫にならない。
悲しい・腹立たしい事態をおさめて平穏な日常を取り戻すにはこうした建前が求められることもある。
『性加害が有ったという事実認定』を双方が受け入れ、双方が納得する落とし所を探るならば当事者間の話である。口を挟むつもりはない。
ただしこのことも、裁判所の真実性認定と同じく『性加害が有ったという事実』を証明はしない。事実認定と事実とはノットイコールだ。
上のいさかいの例に戻ると、謝ることはDの義務ではないだろう。
Cをどう思うのか、また事実と異なる事実認定をDがどう捉えるのか。場合によっては『自分は絶対にやってない』と事実認定を拒むかも知れないし、それを罪と断じることも難しい。誰だってやってもいないことをやったことにされたくはないのだから。
事務所はそのような姿勢を取らなかった。事実認定を受容した。
そのことをプラスに評価しろと言うのではない。事実認定を事実とみなすのは単純に誤りだと言っている。
客観的にはもちろん、感情的にも受け入れがたいだろう──例えばDが、家族ではない誰かから『Cに酷いことをしたお前は犯罪者だ、刑事的責任を取れ』などと言われた場合を想像すれば。
◆“社会的制裁”をなんと呼ぼうとも
性加害の事実は現時点で未確認であり、氏に刑事責任を負わせるには(仮に存命であっても)根拠が無い。よって氏を犯人呼ばわりすべきではないと筆者は考える。
一方で、犯人扱いする人からは、『自分たちは刑事責任ではなく社会的責任を求めている』的な意見も聞かれる。
どうも何らかのロジックで『自分たちのやっていることは制裁ではない』的な判定になっているようだが、社会的だろうが私的だろうが、それをなんと呼ぼうとも、司法手続きを経ていない制裁は憲法違反である。
第三十一条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
あるいは“制裁”ではないとして、“社会(被害者)のため”に賠償をさせようということだろうか。その場合お金を出すのは事務所ではなくなるのだが。
というのも企業は株主のものだ(ここでは資金なことを言っている。人材はもちろん含まない)。株式を全て保有する景子氏の私的な財産にあたる。
その私的財産を“社会(被害者)のため”に使わせようというなら──
第二十九条
財産権は、これを侵してはならない。
② 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
③ 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
──“正当な補償”がない限り憲法違反である。
ジャニー氏を公然と批難する方々は、おそらく事務所への補償など断じて認めないだろう。それはつまり『被害者に金銭などが渡ること』よりも『事務所が金銭を失うこと』を求める態度だ。制裁でなくてなんだと言うのか。
『社会的責任』にせよ『性加害を許さない』にせよ、その字面で思考停止するなら単なる美辞麗句である。
ちゃんと想像を働かせて欲しい。次のような状況に陥った時に袋叩きになりたいのか。
誰かがあなたのことを性加害者だと告発した。
あなたはそんなことをしていないが、その告発を否定する証拠を出せと言われても困ってしまう。やっていないのだから。
警察などに調べて貰えば事実は明らかになると思っているが、告発者は被害届を出さない。
あなたは(評判など何らかの理由により)告発者を公然と批難できない。
このような攻撃は事実も人権もないがしろにしている。私はこんな理不尽な袋叩きには遭いたくないし、何人も晒されるべきではない。
故に、ジャニー氏を性犯罪者だと決めつける言説には強く反対する次第である。
以上
(2023/11/01追記)
事実と事実認定の対比に関する指摘は妥当な部分もあるので、細かい部分の補足を含む記事を書きました。
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