Wikipediaに載ってない「梶原賞」の歴史
Wikipedia難癖マン参上
Wikipediaに、「週刊少年ジャンプの新人漫画賞」というページがあります。
『ジャンプ』主催の歴代新人賞に関する情報ということで、手塚賞・赤塚賞・ホップステップ賞などについて紹介されています。
その「週刊少年ジャンプの新人漫画賞」のページでは、原作系の新人賞については、次のように紹介されていて……。
ページ内を検索しても、1980年~1983年に存在した「梶原賞」に関する記述は無いようです。
(その前身である、1978年~1979年の「漫画原作賞」についても触れられていません)
補足
いちおう、「手塚賞」のページには「梶原賞」に関する言及があります。
この記述にも、若干誤解を招きそうな部分はあるのですが……。
正直、「梶原賞については、このくらいの認識で十分でしょ?」と言われたら、反論しがたいところはあります。
ついでに、「まんがseek」を見てもこんな感じで……。
こっちはたぶん、有田万里先生のプロフィールだけがソースですね。
そんなこんなで、どうやらほとんどの人類は「梶原賞」に興味がないため、ネット上に、あまりちゃんとした情報もないようです。
なので今日は、その辺をスキマを埋めていきたく存じます。
ジャンプ創刊9周年記念・漫画原作大募集
さて、『少年ジャンプ』は1968年に創刊したのですが……。
「創刊9周年記念」として、1977年に「漫画原作大募集」という企画を実施しました。
1977年7月に募集を開始して、締切は「1978年1月末」。
受賞作の発表は「1978年6月」というスケジュールでした。
「漫画原作賞」発表
そして、1978年6月、 予定通りに入選作が発表されました。
後世、この賞について語るときに、いまいち正式な名称がよく分からんという問題があるのですが……。
募集開始号では「創刊9周年記念 漫画原作大募集」
結果発表号では「創刊9周年記念 漫画原作賞発表」
入選作が連載化したときの紹介は「第1回原作賞入選作品」
という感じだったので、「少年ジャンプ原作大募集」「第1回原作賞」などと呼称されることが多いです。
第1回受賞メンバーの活躍
ともあれ、創刊9周年の「原作大募集」の結果は、次の感じでした。
この受賞者たちの原作による漫画は、80年代半ばまで、結構たくさん『週刊少年ジャンプ』に連載されました。
そのタイトルと連載話数を挙げてみると……。
武石正道先生:『ロックンロールベースボール』(11週)
寺島優先生:『テニスボーイ』(130週)、『ウィニング・ショット』(23週)、『ウルフにKISS』(13週)
篝一人先生:『ショーアップ・ハイスクール』(12週)、『スーパーポリス』(11週)、『THE ファイター』(14週)
中原誠先生:『マリオ』(12週)、『ロックンロール物語』(10週)、『アルバトロス飛んだ』(11週)
恐ろしいことに『テニスボーイ』以外は全部打ち切り漫画で、打率1割という感じです。
打ち切りラスト図鑑
この辺の打ち切り漫画は、ネタとして話題に挙がる機会も少ないところ。
古い漫画ですし、たぶん、ほとんど知らない(覚えてない)と思います。
こんな感じで、80年代前半に「原作賞」勢が活躍したのでした。
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