ドーナツの正しい食べ方について
意外とドーナツの正しい食べ方を知らない人が多いことに驚いたので、僭越ながらここに記載しておく。
普段から正しくドーナツを食べている人にとっては、退屈な内容だと思われるのでスルーしていただきたい。
食べ方の解説に入る前に、まずは「ドーナツとは何か?」についておさらいしておこう。
ドーナツとは「穴の開いたパン」である。穴が開いていないものはドーナツではない。
あんドーナツのように穴が開いていない個体も存在するが、あれは勝手にドーナツの名を拝借しているだけであり、一般に我々がイメージするドーナツではない。事実、穴の開いていないパンはバンズとかベーグルとかあるいは単にパンと呼ぶのが普通である。
そう、ドーナツがドーナツたるゆえんは穴にあるのである。
ここからドーナツとはすなわちあの穴の部分であるという仮定が成り立つ。何もない穴こそがドーナツの本体なのだ。普段、なにげなく食べているドーナツ、その本性は仏教で言うところの「空」であったのである。
もっとも、この説には反対意見もあり、小麦粉でできた輪っかの部分こそがドーナツであると主張する一派も存在する。その者たちによると穴はあくまでドーナツの成立条件に過ぎないとのことである。
穴と輪のどちらが主で、どちらが従であるかは、あまり重要なポイントではない。
大事なことは「輪なしの穴のみ」は成立しないという事実だ。逆に「穴なしの輪のみ」も成立しない。
これを踏まえる輪と穴の両方がドーナツなのであるという意見も説得力があるところである。ここから輪と穴はそもそも同一のものであり分かつことはできない、との主張を行う者もいる。
だが、この説(穴即是輪説)の信奉者に対し、「ドーナツ半分あげると言われて、穴のほうをもらったとき、あなたは嬉しいのか」と問うと大抵の場合は沈黙してしまう。
ドーナツとは輪なのか穴なのか、あるいはその両方なのかという、学術的な議論はさておき、実際に食すうえで気をつけなければならないことは、穴は輪を壊した時点で穴じゃなくなるということである。
ここで読者諸賢はドーナツというのは食べ始める前だけがドーナツなのであって、輪を崩した時点でドーナツではなくなるという厳然たる事実に気づくだろう。がぶりと噛んで輪を崩し、穴を外部の空間と同一のものとした時点で、あなたが食べているそれはもうドーナツではない。別の何かだ。
さっきまでドーナツと呼ばれ、蝶よ花よと可愛がられていたのに、一口噛まれて穴を失えば、もう菓子パンとかドーナツ味の輪っかと呼ばれ、追われ蔑まれる落魄の身である。そういう目でよくよく観察してみると、菓子パン堕ちしたドーナツはどこか己の境遇を恥じ、世間から身を隠そうと、ネジネジいじけてツイストしているように見える(特にエンゼルフレンチなど)。
己の半神である穴を失った菓子パンは、自らも永遠に輪には戻れないことを悟り、絶望と諦観と小麦と砂糖が入り混じったような味をしているという。
ここまでくれば、ドーナツの正しい食べ方についても自明のことであろう。
あなたが最後までドーナツを味わいたいのであれば、ギリギリまで輪と穴を壊さないように輪の縁を削るようにして食べ、最後の一口で輪っか全てを口内に放り込むより他ない。
このとき、ドーナツは最後の瞬間までドーナツであるという矜持に満ち溢れており、味も菓子パン堕ちしたときの1.05倍は良い(ような気がする)。