思考のプロセス
自分の考え方って、癖みたいなもので、治そうと思っても治せるものじゃないし、実は自分でもそんな自分の考え方が好きだったりもする。
建築を学ぶ中で得られたものはやっぱり大きくって、「三つ子の魂なんたら」とはよく言われるけど、「十八子の魂」でもある。自分の場合。
今は建築ではなくてマーケティングの仕事に就いているけど、考え方は同じ。建築もマーケティングも、モノづくりも、それは最適な解のための選択肢の一つにすぎない。求めたいことは何なのか、何を言ったら喜んでもらえるのか、本質って何なのかとか、そのためにどんな手段が最適なのか、とか。
小中高でよくいた、クラスの中心的なやつ。カーストの上の方で、何かと目立つやつ。そういう人を遠くから眺めているタイプだったから、自分のことを前に出すことにあまり興味が無くて、それも今の考え方に影響はしている。サッカーだとバランサー、長谷部選手みたいな。ストライカーでゴリゴリ点を獲りにいくタイプではないけど、いい仕事してて、安心感がある。たまにゴールエリアの外からこぼれ球をズドン、みたいなのが好き。
集団の議論だと、自分の案で前に進めることよりも、抜けている視点を探すのが先に頭に浮かぶ。進んでいる議論に穴は無いか、現実的な視点とか抜けてないか。チームには必要なのかもしれないし、逆の立場ならそういうポジションがいてくれると助かる。
自分を犠牲にしている、とは言い過ぎなのかもしれないけど、自分が介在したことでいいものになるのであれば、それが自分色なのかどうかはあまり興味が無い。「ものづくり」へのリスペクトにも通じるところがあるのだろうか。
人間関係でも強引にいくことは無いし、そうなれない。もっと感情を出すとか、はじけるとか、自然に出るならそれでいいけど、わざわざ出すことに意味を感じない。自然でいいし、まじめとか堅いとか言われようが、それの何が悪い。
奥さんから卒婚を提案されても、理由付けて実質の別居生活になっても、態度が変わったわけではない。そういうところなのだろうか、原因は。