見出し画像

文化祭運営とは① ~子どもがやりたいのは本当に文化祭?~

今日ってたしか文化の日ですよね。うまく語りきれる自信はないですけど、文化祭について語ってみます。

祝日にスポーツの日と文化の日があるように、学校には体育祭と文化祭があります。2つは兄弟みたいなもんですね。

体育祭の目的はスポーツを楽しむこと、文化祭の目的は文化を楽しむこと。

「年一回くらいは授業じゃなくてそういうレクリエーションしてもいいよね」みたいな。そんな位置づけなら、ラクなんですけどね。残念ながら現実、そうなっていない。特に文化祭は、教員視点からしたら胃が痛くなるような行事です。

世間で想像されるよりほんと難しいんです。それについて絶望的にダークなトーンで語ります。

文化祭の本来の在り方

ここでは、「子どもが文化的な活動に触れる、特に作り手側の経験を積む」ことを文化祭の本来の在り方とします。それって楽しいことです。絵を描くのは楽しいこと。絵を描いて展示して、人に評価してもらうのは楽しいこと。そして、そういう理想の在り方からいかにしてズレてしまうのかを語ってみたいと思います。

申し遅れました。私は2つの私立高校(片方は中高一貫校)で文化祭のチーフを務めてまいったイチ教員です。文化祭絡みでの残業時間を合計したらシャレにならんことになります。そんな経験ある人、この国に100人くらいしかいないと思うんで、この件についてはわりと語る資格があります。マジで。

けど、複雑な思いがある分、本気で語ろうとしたらきっと愚痴っぽくなります。だからこれまで正面切って語るの避けていたんですが、まあいけるところまでいってみます。(シラフだともたないかもしんない。)

さっそくですが、私が考える文化祭の難しさランキング、第一位。

生徒が期待している文化祭像が先述した本来の在り方とズレていること。

これです。

そして、これに言及した人は、もしかしたら全国どこにもいないかもしれない。だから何が言いたいのか、直感的にわからないかもしれません。詳しく説明してみます。

生徒の脳内にある文化祭像とは

文化祭を経験する前の段階で、生徒の脳内にはすでに文化祭像ができあがっています。それはマンガとかで得た知識とメディアが報道したものと親や先輩からきいた話とがごっちゃになったものです。具体的には「お化け屋敷がある」「喫茶店とかある」「なんかコスプレする」「バンド演奏で盛り上がる」みたいな、ぼんやりした青春イメージ。

ここで重要なのは、生徒の脳内にある文化祭はイメージであり、論理じゃないことです。

生徒は「文化祭ってああいうもんだよな」という光景だけが想像できています。たとえばお化け屋敷なら、部屋を暗くして、お化けに変装した人が驚かすといった光景です。ところが、それをつくる過程は想像できていない。どんなところが実現困難か、どんな資材や機材が必要か、どれくらい準備期間が必要か、とか。

知らないなら教えればいいだけですが、事はそんなに簡単じゃありません。生徒がやりがたっているのは文化祭というより文化祭「像」ですから。

本当ですよ。文化祭じゃなくて文化祭像をやりたがっているんです。

生徒の要望は、突き詰めていえばお化け屋敷が「あってほしい」であって、「つくってみたい」ではないです。クリエイティブな活動をしてみたいというよりは、自分がイメージするあの文化祭をここに実現させたいなのです。あの文化祭はいわばイデア界にありますので、そっとやちょっとじゃ実現できません。でも、実現させるのに苦労するのはイヤ、自分じゃない誰かががんばってやってよ、みたいな感じです。

くどいようですが、文化祭の本来の在り方はその実現させることの方にあって、しかもそれは楽しいことだと思っているので、ぶっちゃけ嫌がられても困るわけです。

もちろん、生徒の中には、ちゃんとクリエイティブな活動をしたがっている人もいます。実現させるために計画を練って、準備してという行程を一生懸命やる生徒もいる。「自分たちができること」と「来校者を喜ばせること」を計算に入れて、最適な企画を立案できる生徒もいなくはない。

とはいえ、大半はそうじゃないから、クラス単位などの企画をしようとすると、基本的に理想の文化祭「像」をやりたがる集団に数の論理で押し切られてしまいます

その結果、クラス単位の企画は、実現可能性の低いもの、担任からすればリスクだらけのものに決まります。ディズニーやUSJの企画をまんま再現しようとしたり、お化け屋敷や喫茶店をやろうとしたり。

元が地に足のついていない企画だから、完成までのロードマップは存在しません。すぐに頓挫します。あれほどやりたがっていた言い出しっぺも投げ出します。

でも、単に「できませんでした」だと手痛い失敗経験になって、今後のクラス運営に多大な悪影響が出るため、担任としてはなんとか軟着陸させようとします。クラスの生徒同士も仲悪くなっちゃって、派閥争いがはじまったり、教室に入れない子が現れちゃったりしますからね。

親心というより、やむにやまれぬ事情によって、担任がなんとかするしかなくなるのです。私もかつて、夜まで校舎に一人残ってお化け屋敷をつくったことがあります。(笑えない話ですね、生徒じゃなくて教員が夜まで残って生徒考案のお化け屋敷の準備してるんですから。)

文化祭とはかくも難しいものなのです。

クラス単位か有志単位か

文化祭をクラス単位で行うデメリットはここにあります。一方、有志単位をベースに運営すれば、ある程度ちゃんとクリエイティブな活動したい生徒の集団だけが参加するため、こうした苦しみはいくらか軽減されます。

ただし、文化祭を有志単位にした場合のデメリットは、全校参加型でなくなることです。つまりほとんどの生徒は何も経験しない文化祭になってしまうこと。これじゃあ学校の授業を休みにして行う意義がないじゃないか、といわれてしまいます。

もうひとつ、クラス単位だけど、ルールでガチガチに縛るという方向性もあります。こうするとルールが厳しいことに不満を述べる生徒が大量にでます。文化祭の本来の在り方からもズレてしまいます。

こうしてうまれるのが、学校がさせたい取り組みに嫌々参加させられる生徒たち、という悲惨な構図ですね。でも、これもある面で致し方ないんですよね。(生徒も保護者も不満を言ってきますけど。)このルールを緩めたら実現可能性低い企画だらけになって、大混乱しますから。

いずれにしても、クラス単位か、有志単位か。これは文化祭運営において最大の分岐点だと思います。どちらも一長一短あります。

そのうえで、ズバリ個人的な見解を言ってしまいますと、有志単位にするのがいいと思うんですよね。実際、私はある学校でコロナ禍に乗じてクラス単位から有志単位に変えたこともあります。うまくいったかどうかはともかくとして、混乱とともに頓挫する企画はなくなりました。

私が有志単位をおススメする理由は、ある種の倫理観です。クラス単位での企画実現が困難なことを知っているなら、みだりに現場に投げるべきじゃないと思うからです。担任の現場でのリーダーシップに期待するのは、マネージャーとしてあまりに無責任じゃないかと。

これって部活と似ていますね。部活動顧問を勝手に任命しておいてあとはよろしくーっていうのも、やっぱり無責任だと思うんで。そんなとこです。

もちろんクラス担任として企画やりたいって声は、教員側からも出てきますけどね。そのあたりも部活と一緒で、部活やりたい教員の声に引っ張られると部活やりたくない教員が苦労するので、慎重にならざるをえないというわけです。

ただし学力による……残念ながら

あと、ご推察の通り、ここで述べた問題って学力帯によっても違います。

賢い生徒たちは完成までのロードマップが敷けるので、クラス単位で自由に企画を立てさせてもまあまあゴールまで辿り着けます。そうでないとすぐに暗礁に乗り上げてしまいます。

体感的には、生徒主導でいけるのは上位一割未満だと思います。つまりほとんどの学校は、生徒に好き勝手にさせると危険です。うまくいきません。

残念なことですけどね。目的があって行われる学校行事なんで、学力と無関係に同じような経験をさせてあげたいという思いはあります。でもそうもいかないんですよねえ。

うーん、おそろしく反動的な意見になっちゃいました。

でも、こういう意見を誰かが発信しないと、いつまでも理想と現実のギャップに絶望する子どもが増え続けるので、あえていわせてもらいました。

いま教育業界では、PBL(Project Based Learning)という言葉が流行しています。いろんなものをPBLに変えるとうまくいくみたいな言い回しをよく目にしますが、とんでもない。

めちゃんこ難しいでしょ、それって文化祭運営をしたことあれば知ってるはずでしょ、といいたいです。本当にできるんなら、それに越したことはないので、何もいうことはないです。

まだまだ言いたいことはありますが、これくらいで一回、やめておきますか。

あ、最後に。このあいだ東洋経済ONLINEで読んだ以下の記事は素晴らしいです。どこの学校でも「生徒主体の行事運営」をうたっていますが、実際のところは文化祭や体育祭の形式からみてはどうかという卓見ですね。まったくその通りだと思います。

[参考]
文化祭や運動会で見る受験校選び「深い」ポイント「うちは自由な学校です」が本当かを見極める(おおたとしまさ : 教育ジャーナリスト)

いいなと思ったら応援しよう!