学校と企業のコミュニケーション
わけわかんないタイトルですね。多数の教員と少数の事務員からなる組織、学校ですが、致命的な欠点があります。簡単にいうと、外部との付き合いが下手ってこと。そのことについて語ってみたいと思います。
学校が関わる業者とは
学校は様々な業者と関係をもっています。
教材なら東京書籍とか大修館書店とか数研出版のような教育出版社、模試ならベネッセとか河合塾、進路関連で先のベネッセに加えてリクルートとかマイナビ、修学旅行ならJTB、近畿日本ツーリスト、日本旅行のような旅行代理店。他にも制服や体操着、学食や弁当、部活動の備品、バスなどの交通手段。もちろん一般事務系で校舎や設備のメンテナンス業者とか。
多くの業者をあげました。しかし、これらとどれだけ付き合おうと、リアルな社会人スキルという意味で、まともな経験を積むことはできません。というのも、これらの業者とは学校側がお金を支払うことで関係性が保たれているからです。
こっちがクライアントやカスタマーで、向こうがサプライヤー。
つまり、向こうはこっちの顔色をうかがう立場。当然、下手(したて)に出てくれるし、多少無理なお願いをしても言うことも聞いてくれます。にこやかに話しかける必要もありません。
そんな非対称な関係をいくら続けたところで、営業職を筆頭にビジネス界隈で必要とされる汎用的なコミュニケーションスキルは身に付きません。(運動部の顧問が地元のスポーツ用品店の人とかアシックスとかヨネックスみたいなスポーツ用品メーカーの営業職に対して横柄な態度とっているのみると、胸がざわつきます。この光景、学校教員あるあるだと思います。)
その逆、学校がサプライヤーになるときって、あえていうなら相手が生徒か保護者のときってことになるでしょう。
でもそれってちゃんとしたクライアントとサプライヤーの関係でしょうか。なんというか、一般的な客商売の関係とはいえませんよね。
だって、学校が「評価する」「進路先に推薦書を書く」といったような権限を持っていますから、その時点で通常の関係とは異なります。もしかしたら学校は、オカミ(文科省や教育委員会)との交渉の方が、クライアントである生徒や保護者との交渉より下手(したて)に出ているかもしれません。
もちろん、こうした関係性をもつ商取引は他にもあります。たとえば借金を借りようとするときって、クライアントの方が立場下ですよね、偉そうに借金かりてやろうって人はいないでしょう。
学校もそれと似たところがあります。サプライヤーの教員はクライアントの生徒より偉そう、みたいな。
実はこれって、「先生ってのは社会に出たことないから世間知らずなんだよなあ」とバカにされるきっかけの一つです。この手のくだらないやっかみに対して、「おまえのいう社会ってなんだよ」みたいな揚げ足取りはいくらでもできますが、一回はのみこんでおきましょう。というのも、この批判はある程度正しいからです。
だって、さきほど私が挙げた事実。
いくら通常の学校の業務をこなしたところで限られた関係性の経験しか積めないってこと。そのことに自覚的な教職員ってほぼいませんから。全然違う業界の人と出会って気付くしかないのですが、教職員の仕事は閉ざされていて、外部との交流がない。だから気づけない。
今回は、教職員ってどんなコミュニケーションができないのかはっきりさせましょう。
対等な関係を結べるかがカギ
ご存知の通り、教員は頭を下げることが苦手です。頭を下げるというと語弊があるかな、(人によりますが)人並みに謝ることはできます。ですが、下手(したて)に出て交渉を進めることができないのです。そういう手札がない。
私自身、「何とかお願いします」と他企業の方に頼み込んだことがほとんどありません。営業職の人なら日常茶飯事で、頭下げた状態で姿勢を維持できるくらいになってると思いますが、それ、ほとんどやったことないです。だから自分が下手に出て関係性を構築することができません。少なくとも私は。
ですが、個人的に関心をもっているのはそこじゃありません。
そもそもビジネスだろうがなんだろうが、交渉ごとにおいて「頭を下げてなんとかする」みたいな非対称性は不自然なものです。取引は等価交換が基本で、片方が上とか下とかそういうのは歪(いびつ)。手札としてもっておくべきではあるのでしょうが、ないからといって別に問題とは思いません。
だからそっちはいいとして、まずいのは業者と対等な立場で交渉できないことです。ほとんどの教員、というか職員も含めた学校関係者は(この意味での)コミュ力不足です。
そして、ここに学校を一挙にステップアップさせるカギがあるような気がする。それが今回の要旨です。
学校と関係を結びたがっている企業はある
教育活動には無条件で社会貢献のような良いイメージがあります。そのため、イメージの向上(ブランディング)を目標の一つに掲げる企業は、学校と関係を結びたがっています。
具体的には、教育CSRといわれている事業があります。CSRは企業の社会的責任というやつですね(公共の教科書に載っています)。学校単位での工場見学とか職場訪問を受け入れたり、学校に出張して講義したり、企業の製品を学校に無償で提供したりとか、そういった活動のことです。
こうした活動って、お金の面でいうなら企業は損しかしていません。ではなぜやるのか。少々のお金よりもCSR活動として企業イメージがアップすることの方が大きく、組織に利があると判断しているからです。
それほど、学校=教育活動の持つ社会貢献のイメージは、企業から見て高い価値があるようです。SDGsなんかと絡めるとその価値は跳ね上がります。(生業が環境に悪かったり反社的な匂いがしたりする企業だと、イメージを浄化させることに躍起になりますから、学校と絡む動機付けがより強いでしょう。)
一方、学校側からすれば、タダでいろんな教育活動を手伝ってもらえるのですから、こうした企業とのコラボレーションにはメリットしかありません。世にいうwin-winです。ところが、どういうわけか、こうした活動に対して及び腰の学校が多いです。
得しかしないはずなのに、なぜでしょう。
私の推測ですが、その主因となるのが、先に挙げたコミュ力不足です。教職員は企業と対等な関係を築くのが苦手だからです。
お金を払って講師を呼んで講義してもらうのならできる。タダで企業の人に来てもらって講義をしてもらうとなると、こちらもそれに見合った対価を差し出す必要がある。企業の求めるその何かを交渉したり調整したりすることができないのです。正確にいうと、できないっていうか、できる自信がないのです。
ですから、学校が企業などの外部とコラボしようとすると、まるでアレルギー反応のように反対する教職員がいます。会議で何かその場しのぎで思いついたリスクっぽいことをまくしたてるわけです。
そうした教職員の本音は、「これまで俺たちが築いていた安全で閉ざされた学校が開かれてしまうのはイヤ!」ということでしょう。
しかし、ここでの安全は、生徒の安全ではなく教職員のメンタルの安全です。生徒にとっても組織にとっても成長の機会、それを否定しているのです。このアレルギー反応は学校が培った悪しき引きこもり文化みたいなもの。現場がいくら反対しようが、今すぐ捨て去るべきです。
私がこんな考えに至ったのはなぜでしょうか。
私は学校の中で広報という変わった仕事をしてきました。この役割は、教職員にはめずらしく外部と対等な関係を築くことが多いです。そのため、教員でありながらにしてその弱点を自覚せざるを得なかったんですよね。
どっちかというと人付き合いが苦手な自分が、他の教職員よりコラボレーションを得意とするようになったのは、ただの経験によるところです。
ようはコミュ力なんて特段レアなスキルではなく、その立場になれば誰だってできるようになる。スタッフの多くができないのならその風土に欠陥があるということです。
企業コラボ特化の学校という夢想
「開かれた学校に!」なんてスローガンをよく目にします。
実際、学校は生徒や保護者、役所、地域社会には開かれています。しかし、企業には開かれていません。それは単なるコミュ力不足。なら、そこにはチャンスがある。
逆張りをしましょう。
「どんどん企業とコラボレーションしますよ」と謳っている学校をつくれば、おそらくかなりおもしろいことになると思います。(民間資本で新しめの学校、たとえばドルトン東京学園なんかはそういった活動に積極的な印象がありますね。)まさに他力本願っていうか、教職員ががんばるんじゃなくて外部にがんばらせる学校づくりです。
文化祭のブースが半分くらい企業出展とか、そういう学校ですね。私が理想とするのは。
でもそのために必須なのが、コミュ力不足解消のための教職員研修。
うーん、この方針に納得して団結できる教職員集団なんて、ほとんど想像できないんだよなあ。これまでの企業風土というか学校文化を根本から叩き壊すことになるから、容易にはできそうにありません。
まあ、しゃあない。せいぜい起業するときの参考にします。
[補足]
ちなみに学校といっても大学は別です。大学はむしろ産学連携を積極的に行って、それを前面に出しています。広報の占めるウェイトが大きいからか、同じ学校法人でも文化がちがうんですよね。(私は中学高校の広報担当としてはわりと積極策をしかけるタイプですが、ぶっちゃけていえば大学の広報を真似しているだけです。)