僕の半生(前編)

こんにちはチシャねこです。
今回のブログはみんなにお見せするものでもない気がしますが、今までいろいろあったなぁと急に思い立って記録として残したいと思い、執筆します。
楽しい内容ではないので興味があるもの好きな方だけ見ていただけたら幸いです。

生い立ち

1991年1月21日。僕は東京の世田谷区で産まれたらしいです。
あまり生まれた場所に興味がなかったのですが、昔母親に聞いてそう聞いたような記憶があります。

周りの家庭のことは知らないので何とも言えませんが、裕福な家庭だったと思います。厳しい父親に優しい母親、弟二人と何不自由なく楽しい生活を送っていました。
毎年夏休み冬休みはキャンプやら旅行やらに連れて行ってくれて、楽しい思い出が今でも鮮明に思い出せます。
学校も好きで友達も多く、休日は友達の家に行ってゲームをしたり外で野球したりと充実していました。

病気

何事もなく生きたのですが、15歳の時人生を変える病気にかかってしまいます。
忘れもしない2006年9月1日。夏休みが終わって登校初日ですね。
早朝高校に行く朝、時間がなくコーヒー牛乳だけ飲んで家を出ました。そしていつものように急行に乗り高校へと向かっている最中、急におなかが痛くなりました。
ちょうど電車に乗ってドアが閉まる辺りでの腹痛だったのでこれはやばいと思いましたが、次の駅まで15分弱。終わったかと思いました。
結果をいうと15分耐え抜いて次の駅に着いた瞬間電車から飛び降りて何とかトイレには間に合ったのです。本当に漏らさなくてよかった。

で、このしょうもない話はなんなんだと。思われるかもしれないのですが、この日トイレを済ませた後から体がなんだかおかしい。一番近いもので例えるとインフルエンザの時のような高熱感、倦怠感、ふらつき、眩暈を感じていました。
何とか高校にたどり着いてとりあえず保健室へ向かって熱を測ると38℃近く熱がありました。
まぁ普通に風邪をひいたのだろうとその日はそのまま早退しました。

そして後日、熱が下がったので学校へ行こうとすると体が外へ出るのを拒絶しました。
拒絶というのは外に出ようとすると上記したのと同じく、倦怠感ふらつき眩暈そして吐き気腹痛等が一気に来る感じでした。
これはまだ風邪が治ってないんだと思い、両親に説明して一度自室で休むことにしました。
そして自室に戻った瞬間・・・。なんと元気になったのです。
意識もはっきりし、倦怠感も吐き気も腹痛すら治まりました。
治ったのを感じ、遅刻確定でしたが家を出ようとすると再び同じ症状が襲ってきました。
自分でも訳が分かりませんでした。その日は結局学校を休んだのですが、次の日も次の日も同じことが起きたのです。

結局近所の内科に行くことになり診断を受けましたが、「異常なし」とのこと。この辺りから仮病を疑われ始めるのですが体に何か異常が起きているのは確かでした。
内科をいくつか廻っているともしかしたら精神的な何かではないかと。
当時はまだ精神的な病気が注目されていなかったようで、なかなかそこに至るのに時間がかかりました。
僕自身も精神的な病気なんてあるのかと、その場で思ったくらいです。

心療内科を受診した結果僕は自律神経失調症と診断されました。
これは個人差はあるので一概には言えないのですが、僕の場合は簡単に言うと慢性的に体調が悪い。外に出ようとするとさらに吐き気や動機、パニックが起きる。電車には絶対に乗れない。密閉された空間にいる、または行こうとすると体調が悪くなるというものです。

そして心療内科の先生曰く、現状治す術がないとのこと。
これは10代後半の話ですが現在も通院しており、あれから10年以上経った現在でも完治する方法はないそうです。

これを言われた時の絶望感は今でも覚えています。
なんで? 電車の中でただお腹が痛くなっただけじゃん。

原因は色々あるが、ストレスが大半と言われました。正直あまり心当たりはありません。家庭にもそんな不満はなく、学校は大好きだったのでストレスを抱えるようなことはなかったはず・・・。
でもこの病気になってしまったからにはちゃんと向き合って、薬等で症状を抑えて、前向きに生きていかないといけない。そんな感じのことをお医者さんに言われたと思います。

これが高校2年生の時の話で、この時点で学校にはほとんど行けなくなっていました。先述しましたが僕は学校が大好きだったので行けない苦痛は想像以上でした。
友達は自分のこと覚えてくれているだろうか。文化祭出たかったなとか、そんなことを考えて毎日過ごしていました。
そしてついに、学校に行けないのに学費を払うのも勿体ないよねということで、高校2年生の秋に僕は母親と担任の先生と相談し退学を決意しました。

本当に悔しかったですね。人生のレールから外れたショックより高校を卒業したかった、できなかったショックの方が大きかった。

退学後

両親の優しさもあり、しばらくは自宅で療養しながら外に慣れるリハビリをして暮らしていました。その甲斐あって電車には乗れないものの外に出るくらいならできるようになったのです。

そして更に温かい話で、僕の病気を知った中学時代の友人が自分が働いてるバイト先でアルバイトをしないかと話を持ってきてくれたのです。
病状のことを知ってた友人は僕でもできるからと面接を取り付けてくれました。面接に行ったところ、2時間ほど個室で一人で淡々とやる作業だから途中体調悪くなったら休憩してもいいし、人に迷惑かけることもないからやってみないかと言われました。
正直それでも迷惑かけそうで怖かった・・・、けどこんな有難い話は無いと思って働かせてもらうことになりました。

それからしばらくは2時間のバイトとリハビリの生活を繰り返すことになります。
両親、友人共に恵まれている。分かっているのですがどうしても前向きな考えにはなれていませんでした。
バイト先の友達同士でどこか遊びに行こうという話が上がって自分が誘われても、十中八九出先で体調不良になるのが分かってるので断る。
家族で毎年恒例で行くキャンプも自分が行くと体調不良で足を引っ張ることになるので自分だけ家で留守番する。(実際、家族が気にしなくていいから一緒に行こうと誘ってくれたので言ったところ案の定体調不良を起こし、予定を狂わせてしまった)
そんな感じで回りの人とは違うのを感じるたびに悔しく悲しい思いをしてきました。
大事な青春時代をこんな形で過ごしているこの現状に嫌気は募るばかり。

配信者になる

2008年くらいになり、体調も依然芳しくなく無気力な生活を続けていたのですが相変わらず遊びに誘ってくれる友達は未だ数名いました。
その中の一人がある日ニコニコ動画を勧めてきたのです。

実はなんですけど僕は18歳までパソコンをまともに触ったこともなく、当時はスマホもなかった時代なのでYOUTUBEすらもほとんど見たことがありませんでした。
友人にニコニコ動画を無理やり見せられて、たしかテニミュの動画を見せられました。友達が爆笑してる傍ら何が面白いんだこれと思って見ていたのを覚えています。

その時はそれで終わったのですが徐々にニコニコ動画の面白さに嵌っていき、気づけば朝から晩までニコニコ漬けの生活になっていました。
これは結構自分の中では凄いことで、病気して以降何事にも無気力で興味が湧かなかった僕が数年ぶりに熱中する出来事でした。

大げさに言うと生きる希望を見つけた感じでした。
寝るときに「明日もどうせ何もないんだろうなぁ」から「明日はこの動画見よう!」に変わった訳ですから大きな変化です。

そしてニコニコには動画とは別に生放送があることを知り、動画より生放送を見始めたのです。
生放送して目立っている人たちを見ていつしか自分でもやってみたいと思うようになり、2010年の12月に生放送を始めました。
生放送をするようになってからはニコニコを知る前のどん底生活のことは忘れてのめり込むことができました。

もともと学校でも目立つのが好きで話すことも好きだったので、今までできなかったことができることに喜びを覚えました。何より自宅でできるので体調が悪くなっても人に迷惑をかけない!
よくニコニコで人生変わった。なんていう人がいますが僕もその一人です。

ここから事態はどんどん好転していき、なんと2016年に生放送で収益が得られるようになったのです。そして病気の自分には一生縁がないと思って諦めていた彼女もできました。

彼女とは一緒に旅行に行ったり、自分一人で行かないようなところに行ったり、そして出先で体調が悪くなっても気を使ってくれたりとこの時の彼女には本当に感謝しています。失った青春時代が一気に帰ってきたようでした。
本当に本当に楽しい日々だった。

この頃は本当に楽しかった。
人生の絶頂だったと思う。

ここから先は暗い話多めです。
この続きはあまり公にしたくないので有料記事にします。
もう一度言いますが、明るく楽しい内容ではないので後編を読む方は注意してください。

続きの記事はこちらから→【僕の半生後編


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