普通に吉牛
"誰もがやること”
これが難しいと、私は思うの。
樹木希林
念願の吉牛を食べれた、昼に。
石神井には吉野家がない。
少しはなれた、下石神井にはるのだが、そこまで買いに行く気にもならず、帰りに寄るにも家と反対方向なので、仕事終わりに寄る気にも成れず、ずっと、「吉野家の牛丼が食いてぇ〜のになぁ〜」と、思っていた。
仕事の移動中に吉野家があってもタイミングが合わない、急いでいる、なんやかやでひと月以上この気持を背負って生きていたのだ。
で、今日は見事に昼前に現地に、それも予定よりも一時間早く到着。
完璧だ。
わたしは、店で出来たてを食べるよりも、弁当が好きなのだ。
汁が米に染み込んで、渾然一体となった感じが良い。
これはうなぎにも言える。
うな重は店で食べるのも好きだが、弁当がより好きだ。
「お持ち帰り」で牛丼を買い、今日の午後の現場の駐車区画に車を停めて、車の窓を開け放ち、桜を眺めながら牛丼を満喫した。
やっぱ、牛丼は吉野家が一番好きだな。
松屋は石神井にもあるが、ちょっと違うんだよなぁ。
松屋のプレミアム牛丼も、昔の松屋の牛丼に比べたら相当美味しくなっているので、普段は全然問題ないのだが、一旦「吉牛スイッチ」が入ってしまうと、プレミアム牛丼でも物足りない。
それに、松屋、最近は感染防止対策のため、食券を買ったらその場で待機、番号で呼ばれて取りに行く、方式になり、ほっとくと牛丼は別盛り(ごはんと牛丼の具が別々)になってしまう。
私は別盛りは嫌いなんで、いちいち食券を買って、「直盛りで」と言いにいかねばならず、その度に、「番号でお呼びいたしますので、あちらでお待ち下さい」と注意を受け、その度に「いや、わかっているけど、牛丼直盛りにしてもらいたいだけ」「あ、失礼しました。直盛りですね」とこんなやり取りをせねばならないのがめんどくさい。
で、ますます、松屋の牛丼から遠のいてしまい、松屋では基本、定食系を食べることになる。
石神井にも吉野家できねぇかなぁ。
昔はあったんだけどなぁ。。。
石神井の駅周辺には、吉野家とマクドナルドがない。
マクドナルドはなくてもわたしはいいのだが、吉野家はあってほしいんだな。
たまにしか食べないくせにうだうだいうヤローのわがまま。
そういえば、石神井に丸亀製麺ができた、駅前に。
5日前に開店したばっか。
未だ行ってない。
中華とラーメンの店が大半の石神井で、うどん屋は助かる。
あとは普通に焼き魚や煮魚の定食が食べられる店がほしいなぁ。
普通な感じがあまりないのが石神井の昼飯事情でもある。
普通は難しい。
無理やり持っていけた😅
さて、今日の言葉、樹木希林さんは演技のことでこのことを述べている。
普通を演じる、日常の当り前を演じるのが一番難しいということだろう。
で、この言葉を読んでいて、これは演技だけでなく、人間として生きていく中で、普通であることが一番難しいのかもな、と気付かされた。
普通の生活ってなんだろう?
という難し問題もあるが、そこまで掘り下げないで。
目を覚まして起き上がること。
食事を摂ること。
排泄すること。
水を飲むこと。
歩くこと。
座ること。
眠りにつくこと。
思考すること。
笑うこと。
怒ること。
悩むこと。
涙を流すこと。
当たり前にできている時、それに対しての感謝も驚愕も疑問もない。
できる人にとってはまったく難しくなく当たり前にできること。
でも、できなくなった途端、それが何よりも大事で、とんでもなく凄いことであったと気づく、遅まきながら。
そして、皆、遅かれ早かれ、この普通が普通にできなくなる時が来る。
だからこの普通は実はとんでもなく凄いことなんだ!なんて、思えもしない、実感できてもいないのにうそぶく必要はないと思う。
ただ、普通は難しい、それをなくしてはならないと思う。
自分なりでいい、いまの状況の中でいい、普通であれることに、昨日と変わらなくあれることに、少しは喜びたい。