空気になることを拒んできたので、いまさら憧れはしませんが。。。
「空 気」 まど・みちお
花のまわりで 花の形
ボールのまわりで ボールの形
ゆびのまわりで ゆびの形
そこに ある物を
どんな物でも そこにあらわせて
自分は よけて
その物をそのままそっと包んでいる
自分の形は なくして
その物の形に なって・・・
まるでこの世のありとあらゆる物が
いとおしくてならず
その ひとつひとつに
自分でなってしまいたいかのように
正月三が日が終わろうとしている。
24個のもちを食べた。
いや、24個しか食べれなかった。。。😓
昨年までは30個は余裕で食べれたのに。
ついに、昨晩、今年はもう餅は食べれません(T_T)、ギブアップ宣言をしてしまった。
しかし、朝の撮影散歩をしていると、空腹を覚え、「餅の食い過ぎだけにだけに、持ち替えした😆」(餅返し・・・餅を返す・・・餅を戻す。。。)なんてくだらないダジャレを思い浮かべてしまった。
昨晩は録画していた「孤独のグルメ」を観ていて、気持ち悪くなったくらいなのに、まだまだオレはいけるようだ。
まだ若いぜ!
そしてよせばいいのに、朝、4個のもちを食べた。
全く食欲がわかない。
昨日の「note」で自らに言い聞かせたのに、もうおじちゃんどころかおじいちゃんなんだぞ、って(ToT)
わたしの胃の中には、すでに消化をされているはずの餅が、その原型のまま4個入っている感じだ。
なんてことだ。
わたしの胃液はそれを包み込んで、餅を溶かすのではなく、そっとやさしく保護しているかのように幻想妄想の持ちを包み込んでいる。
わたしの思考、自我、幻想、妄想は形のないものにまで形を与え、その形通りにあれと無理くり型造っている。
空気は自在だ。
でもわたしの妄想は自在なようでいて全く自在ではなく、固定観念という全く固定されていない、しょっちゅう変化して一貫性のまったくない価値判断によって作られている。
そしてそれは一回作られると、自分の都合では壊せない。
外的内的のなんらかの刺激と作用でぶち壊してもらってようやく「あれは妄想だったのね」と納得させていただける。
今、わたしの胃の中で胃液に保護されてズン!といる餅は、この胸焼けと胃もたれが改善されて、ようやくわたしにとってそれは妄想だったのだとなり、ようやく胃の中から胃液とともに消え去っていく。
そのために外的刺激も必要なのかも知れない。
胃酸を飲もう。
ただ、胸焼け胃もたれは、わたしにも胃があることを間違いなく教えてくれる。
そういやぁ、20才前後の頃は胃を感じたことなんてなかったなぁ〜。
天丼とカツ丼食っても胃もたれしなかったし、カルビばっか10人前以上食ってもなんともなかったしな。
歳を取ると、胃がある!、背中に筋がある!、首がある!、肩がある!って、いろいろと気づきもいっぱいあるもんだ。
それが年々、何もしなくても感じられるようになるんだから凄い。
歩いているだけでふくらはぎどころか、スネの筋や、臀部の筋や、時には背中の軟骨までも感じているしな。
ま、これも半分妄想のようなもんだろうが。
結局、妄想からは離れられないようだ。
空気のようにその場その場、その時その時で柔軟に様を変え、包み込み、自在であることはできない。
これまた妄想の範疇でしかないが、相対する人間や事象に対して、意識を自在にできるように成れたら楽なんだろうなぁ〜、くらいを感じるのが関の山。
ま、それさえ無くそうとしているのがわたしの中にいる、確実に。
年を食ってきた年寄りの前頭葉の老化による自我、頑固さって厄介な奴が。
そういやぁ、昨日、甥っ子の子供4人に相手をしてもらったっが、あいつらはまだ確実にオレよか自在だったな。
自我はあるけど、すぐにその自我を捨てることができる。
コロッコロ新たな興味が自我を崩壊させていき、また新たな自我を作り出していく。
あれだけコロコロ目まぐるしく価値判断が変わっていっても疲れを見せない。
ほんと子供はすげぇな。