見出し画像

Oh脳!

現代は「脳化社会」(養老孟司による)といわれるように、人間の意識の計画性をもとにして寸分違わず社会は動いているという認識がある。
いつでも計画的に、きちんと決められたタイムスケジュールの中で動くことに慣れすぎていて、トラブルに巻き込まれるとそれが一気に弱体化するという面がある。
老・病・死と四苦八苦は、このタイムスケジュールに合わない。必ず自分の考えていたタイムスケジュールが通用しなくなるときがくるのだ。
脳化社会に対して、一番大きなアンチテーゼを唱えるのが、自分自身の身体である。

         武田定光


季節の変わり目、膝がキシキシと痛むことがある。

歳を重ねる中で、30代なのか40代なのかそれすらも忘れてしまったが、正座をしていて立ち上がる歳、膝がグキッとなった。

で、一回やると、ちょいと癖になり、忘れた頃にグキッ。

ま、まだ若かったので、膝の痛みも二日ほどでほっておいても引くし、ほとんど気にしていなかった。

50も過ぎると、さすがに一回グキると痛みも、違和感も引き摺りが長くなってくる。
治癒能力の低下と保湿成分の低下による筋の硬化によるのだろうが、グキッのダメージは深刻なものとなってくる。

そうすると、いくら脳天気なバカなわたしでも気をつけようとなる。
で、ここ数年は、逆にグキることがなくなった。

パッパ!と動くのはやめたし、写真を撮っていてしゃがんだ格好からの体制移動等ものんびりゆったっリとやっている。

ところが、その後遺症なのか、膝が痛い。

なんもしてないのにムカつくぜよ😓

膝のストレッチや柔軟もやってみようかなぁ、なんて思ってみるが、素人が下手こくとかえって悪くしちゃうんじゃね?、と、それすらも踏み切れない。

痛いのに弱い。
痛いの大嫌い!

ビビリで軟弱に生きてきたので、
絶対に安全でないと踏み切れない。
痛い思いをする可能性が少しでもあると思えたら無理なのだ!

そのせいで、柔軟体操もストレッチも嫌ってしまい、結果、もっと痛い目にあっているわけだ😭

おのれの判断に頼むのをやめられない
ひと様を信用できない
自分の人間性による結果がこうだ。

自分の身体もだし、自然もだし、まったく予定外予想外なことをしてくれる。

それを
「考えもしなかったぁ!サプライズだぁ〜〜〜!!!」
なんて喜べるはずもなく
事実をただ事実として受け止めることもできず
こんなはずじゃなかった😭と悔いるわけだが、
じゃぁ、どうなると思っていたのだ?

すごい単純にいうと
50になろうが70になろうが
20代の身体を維持できて
いつまでもシワも白髪も抜け毛もなく
病にもかからず
身体が何もしていないのに痛む、なんてこととは縁がなく
朝起きたときに疲労感に見舞われ、床から抜け出すのすらキツく感じる、そんなことあろうはずもなく
今日から走ろうかなと思えばその瞬間から5kmくらいなら軽く走れて、歩くだけなら何時間でも歩けて、爽やかで、汗も臭くない!
そんな調子のいいことを考えていたのだろう、どこかで。

気候も
日本にはいつまでも四季がきちっとあり
台風や地震はあるにしても、甚大な被害なんってことはなく
高度成長も過ぎた最中、感染症の恐怖などあろうはずもなく
温暖化なんて考える必要もなく一生は過ぎるなんてことをあたり前に考えていたのだろう。

まったく能天気にもほどがあると我が事ながら呆れる。

ともかく季節の変わり目に身体が反応するようになった。

これが、実力者になれば、雨が降るのが分かるとか
自然現象にまで反応できるようになると昔から聞く。

「お父ちゃん、角のタバコ屋のバァちゃんが〈神経痛が酷いから雨降るよ〉って言っていたから、今日は傘持っていったほうがいいよ」
「なに言ってやんでぇ!こんなに晴れてんだぞ。天気予報でも今日は雨の心配はないって言ってんだ。タバコ屋のババァのいうことなんざアテになるかよ!」
「タバコ屋のバァちゃんの神経痛をなめてると酷いことになるよ。天気予報なんかよりかよっぽど当たるんだよ!」
「うるせぇ!行ってくっからな」
夕方から大雨になり、旦那はずぶ濡れの濡れ鼠で帰宅。

こんなような話は、時代劇や落語や舞台なんかでよく使われていた。

オイラの膝痛もそこまでとは言わないが、せめて、明日の気温が高いか低いかくらいは分かるようになれば、少しは膝痛を受け入れられるのだが・・・。

結局、理由が知りたい、分かりたい。
どんな事になっても見返り次第では受け入れるというスケベ根性。

見返りと知識が大事なのであって、事実はもうどうでも良くなる。

これじゃぁ、あまりにも情けない。

ともかく、膝痛になった自分はそれなりの歳なんだなぁ〜、と言い聞かせ中のここ数年。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集