ドラマチック
体験はそれ自身としては主観的なもの、心理的なものを意味している。
真理は決して単に体験的なもの、心理的なもの、主観的なものであり得ない。
三木清
何十年も人間をやっていれば、平々凡々な人生でも、いや、わたしの場合は平々凡々にすら至らない人生でも、何やかやと体験しているもんだ。
普段はまったく気づかないでいるのだが、誰かしらに質問されりして答えることができちゃったり、誰かしらの「こんな体験したんだよ!」なんて話を聞いて「それならオレもあるなぁ」なんて気付かされたりなんてことはしょっちゅうだ。
で、先に歩まれてる方々からは、何歳すぎるとこうだ、歳を取るってのはああだこうだ、って話を聞かせてもらえていると、鈍感なわたしでも、「あら、ほんと!これが年取るってことなのね!」となる。
ただ年をとっていくだけでも、若い頃にはなかなか体験できないことを体験できる。
ま、面白いもんだ、生きていくというのは。
と、強がっておこう。
でも、昨日も書いたが、まったく「ほんと」は証されない。
ほんとんとこはまったくわからないが、でも、生きることはドラマチックである、どんな人の人生でも。
ドラマの「24」ではないが、あそこまで何やかやがある必要もなく、独りの人物の一日を綿密に追い、それを脚本化するだけでもすごいドラマ、映画がじつは撮れるんだ、と、昔どなたかは忘れたが、有名な映画監督が言っていた。
平凡な人生などないということだろう。
じゃぁ、おまえ、今日一日をドラマチックに述べてみろよ、と言われたら、まったくなんもお話できるようなことは浮かばない。
朝起きて、便所行って、サプリを飲んで、家を出て、車で石神井まで行き、石神井公園をダラ〜と撮影散歩して、寺に出て、留守番しながら昼飯の支度して、昼飯食って、法務に出て、寺に戻って、コーヒー界に行って、いまこれ打っている。
それだけだ。
あ、顔を洗ったしても洗った。
そんなもんだ。
仕事で色々と会話したが、そんなシャレたこと、気の利いたことは話せてない。
自分の中では、自分が見えているものは、わたしの眼は平凡でしかない。
でも、その間に見る人が見れば、とてもドラマチックで面白いことがあるのかもしれない。
考えてみれば、この間にとんでもない量の細胞が産まれ死にしているだろうし、もしかしたら固まって血栓になりそうだった塊がたまたま解けたり流れたりしてたりするかもだし、眼にして把握できていなかっただけだけど、飛び出してわたしの車に轢き殺されかけた虫が間一髪避けていたかもしれないし、すごいことはきっと起きているのだろう。
自分で把握できている経験や体験というのは、そう考えると、大したことがないのかもしれない。
ほんの一部でしかないのかもしれない。
でも、その一部が大事で大事でしようがないのが人間なのだろう。
それだけがいまのわたしをわたしたらしめている根本だ、と思いたくてしようがない。
自分で把握できる範囲で自分を大事にしたいのだろう。
でも、実はそれって、じぶんをめちゃくちゃ矮小化して把握することでしかないのかもよ?
そんな事を考えてみた、ドラマチックな今日。
台風の影響で雨が降ったり止んだり、蒸し暑くなったり、しのぎやすかったり、セミがガンガンに鳴き喚いたり一瞬にして黙り込んだり、外もドラマチックだな。
ドラマチックレインな今日だぜ。
てことで、
稲垣潤一「ドラマティック・レイン」
稲垣潤一はドラマティック。
わたしはドラマチック。
そんなかっこよくないってことな、わたしのドラマは😅