人の世に熱あれ、人間に光りあれ。
実は京都へ行ってきた。
「水平社創立100周年記集会」に参加するためだ。
色々と考えさせられた。
それはおいおい、様々な投稿や言動で発信していきたいと思っている。
人間には差別心がかならず誰しもある。
それを言動で表すということは、誰であろうが、老若男女時処諸縁関わらず恥ずべきことであり、慚愧すべきことであり、悲嘆すべきことだ。
だから、人間として生活していく以上、恥じ・慚愧し・悲嘆することを忘れてはならない。
必ずどこかで差別をしているのが人間であるのだから。
気が付かないうちに、自分が被害者の体で、差別は必ずしていると思う。
だから厄介だ。
自覚ができないのだから、多くの人間は。
「そんな差別はもうないよ」「私の周りのマイノリティの人は差別を感じたことないと言っているから、ここには差別はない」とか言っているのは本当にたちがわるい。
その姿勢こそが差別なのだよ。
で、わたしはというと、なにか言動として表したことで気づくときはまだマシだ。
指摘されたときもまだマシだ。
やっぱり、気づいていないところが一番怖い。
無意識で差別し傷つけている自分が見えないでいる。
そういう自分に一番ビビっているのかもしれない。
「誰かにバレる、指摘される、叩かれんじゃないか・・・」と、そんな次元でものを考えずにはおれない自分がいるのは確かだ。
叩かれるから、裁かれるから、差別はやめとこという世界でしかないのか・・・と情けなくなることがある。
裁かれるから盗みをしない、人を殺さない、そんな次元と一緒だな、と。
ある方が集会の祝辞で、水平社宣言最後の言葉「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」について短く触れられ、「人間」はもともと「にんげん」と読むのではなく「じんかん」と読むのですということを聞いたことがあります、と語られ、「人間」だけではなくすべてのものに光りあれという言葉なのでは、という趣旨のことを述べられた。
よくぞ言ってくれたと思ったね。
「じんかん」については仏教学の最初に教えられることだ。
「わたし」という存在に対して、それをわたしたらしめるものがある。
それが「間」であり、「間」があるということはその向こう側に必ず「わたし以外」がある。
その両方があっって、はじめて「わたし」が存在しうる。
だから、その「間」の向こう側は「ヒト」だけではなく、あらゆるものであり、「間」そのものは、過去現在未来を貫くわたしをわたしたらしめる全てである。
人間という生物だけが救われればいいという狭い考えでは差別もなくならないし、人権も確立されることは決してない。
「ニンゲン」のための差別解消は、しょせん、その他の生物への差別でしかなく、そこに差別がある以上、「ニンゲン」社会にも差別は残る。
「ニンゲン」のランキングはなくならない。
「ジンカン」と読む時、「ヒト」は「カン(間)」の中に生かされている一部であるというところに立つ。
「自然(シゼン)」と読む時、自然は人間の敵であり、人間は自然外生物となる。
「自然(ジネン)」と読む時、「ヒト」は自然の一部であり、過去現在未来を通して、一切の人類はもとより、一切の動植物・事象・現象は一となり、一切が欠くことのできない大事と捉えられていく。
こうした観点から差別問題・人権というものを捉えていかなければ、必ず誰かのエゴに陥る。
それは自分のエゴかもしれないし、その時に力を有したもののエゴかもしれないが、そこに出来上がったものはどんなに多くの人々に支持されたとしても歪んだ人権でしかない。
こうした視点に一回立って、その視点から改めて差別や人権ってものを考えた時、差別撤廃・人権確立すらできない人間の愚かさが見えてくる。
だからこそ、せめて、人間社会において、差別をなくすこと、人権を確立すること、それくらいはなんとかできないもんかね、そんな視点に代わる。
領土で争っているけどさ、動植物からすれば、「いつからそこは人間のもんになったんだよ?しらねぇよ。勝手言ってんじゃねぇよ」てなもんでしょ。
だから彼らは、パスポートもなく、ビザもなく、登録もせず、好き勝手に移動して、好きなところに住むのさ。
ゴキブリやネズミからすれば、「お前の家とかじゃねぇし。俺らの生存場所だし。そこに勝手になんかしらよくわかんねもん作っただけだし、お前らが」てなもん。
だなほんと。
でも、どこまで言っても、どう言い訳しても、しょせんオイラは人間でしかない。