異常と純情が混ざり合う、その先にある感情。
人は、あっけなく恋に落ちる生き物だと思う。
恋人に振られ、拒絶され、人生のどん底に陥ってしまったとき。友人と憂さ晴らしをするために街に繰り出したけれど、どうにも気持ちは晴れない。
だけど、新たな恋は、いつもより受け入れやすくなっている。
目の前にいる異性から向けられた笑顔や優しさを、迷い込んだ暗闇の中の、眩しく輝く光としてとらえ、そこに向かって突き進もうとする。
これこそが、まさに、あっけなく恋に落ちた状態だと思う。
そして、その様子を隣で見ていた友人もいつの間にか恋心が移っている。これもまた、まさに、あっけない。
恋心を抱き、その光のすべてを受け入れ、「護る」ということは、「純情」と呼ばれるものかもしれない。
7月7日、七夕の日に公開された松井大悟監督の映画『君が君で君だ』を見に行く友達に私が投げかけた言葉だった。
この映画を試写会で見る機会をもらったのだけど、始まって数分が経った頃、私は気持ち悪さを感じてしまい、眉をしかめ、思わず口元に手を当てた。目をふさぐことはしなかったけれど、周りを見回した。私の席の近くに座っていた女性も何名か私と同じような顔しながら口元に手を当てていた。
会場にいた、この映画のプロデューサーの阿部広太郎さんに向かって言いたくなった。
「私は見る映画を間違えたし、来る場所を間違えました。」と。
映画のあらすじは、ざっくりいうとこんな感じ。
一方的に思いを寄せる韓国人の女の子の部屋の中をのぞくために向かいのアパートに部屋を借り、壁一面には隠し撮りをした彼女のあらゆる日常の写真を貼り付ける。彼女の部屋を盗聴して、彼女の生活を記録し、彼女の人生を10年もの月日をかけ、のぞき見する3人の男がこの話の主人公。彼女が「好きだ」と言ったから、3人はそれぞれ自らの名前を捨て、「尾崎豊」になりきり、「ブラピ」になりきり、「坂本龍馬」になりきる。その姿はあまりにも滑稽で痛々しく、なんだか背中がぞわぞわとした。生活の自堕落さを伝える映像は、嫌なニオイがスクリーンから漂ってきそうな勢いだった。
そんな大好きな彼女には多額の借金を作った上に、その借金を彼女に背負わせるクズな彼氏がおり、彼女の部屋では連日借金の取り立てが行われていた。「彼女とは接触しない」というルールの3人だったが、彼女を護りたい彼らにはそうはいってられない状況が待ち受けている。
この映画は滑稽で異常な3人のどうしようもないストーリーでもあり、日本という国に夢を見た韓国人の女の子の夢破れた話でもある。恋の始まりは冒頭に書いたような”普通”の出来事だった。そのあとからは、圧倒的な異常が展開される。
もしもこの物語が、日本で頑張る韓国人の女の子に純粋に恋をして、くじけながらも一生懸命頑張る彼女を一番近くで恋人として支え続けるという、どこか既視感のある話だったら。映画を見終わったあと、私の頭の中でもっとも存在感のある状態ではなかったように思う。でも、そうではないので、この映画に関する言葉を私は探してしまう。
学生時代の片思いを思い出した。私は自分に自信がなく、私の思う人は憧れの存在だったので、喋るのも一苦労だった。運動場ではしゃぐ彼の姿を見て、心の中で「かっこいい!」と思いながら、当時の私は見つめることしかできなかった。でも、申し訳ないのですが、それとこの映画の内容を同じものとしてとらえたくはない。
この映画を「異常」としてとらえながらも「純情」を感じてしまうのは、滑稽な3人のまっすぐな彼女への気持ちだと思う。20代のすべてを捧げ、10年思いを貫くということは、生半可なことではない。また「尾崎豊」として演じる池松壮亮の「異常」な中にある透き通った瞳の輝きと一心不乱な行動のすべても、「純情」を懇々と、語りかけてくる。
そんな彼の姿は、なぜか応援したくなってしまう。それもまた「純情」と「異常」のすべてが、まっすぐ過ぎる「彼女のすべてが好きだ」という気持ちだったから。
この映画の最後のシーンを見て、私は思った。
もし叶うのならば、彼女には彼を受け入れてあげてほしい。とてつもなく気持ち悪く、難しいことかもしれないけれど。
文章を書くことに慣れていない私にとって、言語化する訓練のためのいい映画だったと思う。でも、私はまだこの映画を上手に表現する、しっくりくる自分の言葉を見つけることが出来ていない。どうにか誰かと語り合って、見つけてみたい。
平成最後の夏の頭の中に、居場所を作る映画のこと。