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宗教とカルトの境界線。

 安倍元総理大臣が銃撃されてから約1か月。世論では、相変わらず旧統一教会に対するバッシングが続いている。容疑者の犯行動機についてはまだ分からないところもあるし、分からなかったとしても、やってはいけないことを彼はやったわけで、それについては弁解の余地はない。
 先日、岸田内閣は内閣改造を行った。旧統一教会に関係する議員を入れ替えることが主な目的と思われたが、結局旧統一教会との関係は払しょくされないまま終わった。

 そして、旧統一教会と政治とのかかわりについての説明に納得していないとする国民は82%にのぼった。

 まぁ「説明に納得してない」という人に説明を重ねたところで、その人が納得してくれる可能性はゼロに等しいことは、この件に限らず一般的な認識ではなかろうか。
 それはともかく、もはや自民党の中に、旧統一教会とかかわりのない議員など一人もいないのではないかとすら思えてくる。そもそも政治と宗教の分離が憲法で定められているにもかかわらず、創価学会を母体とする公明党の存在を許すどころか、与党に組み入れている時点で、自民党にこの問題に対する意識が皆無であることは明確である。
 政治と宗教の関係については、今まで多くの判決が最高裁によってなされてきた。憲法を学ぶものなら知らない者はいない津地鎮祭訴訟をはじめ、昨年出された沖縄の孔子廟訴訟にいたるまで、枚挙にいとまがない。旧統一教会に限らず、政治と宗教の関係は幾度となく裁判所によって断罪されてきた。これを改めるためには、国民投票によって憲法を改正しなければならないが、上記のような世論では到底難しいだろう。また、憲法改正となると、憲法9条をはじめ、生存権や表現の自由など、ほかにも多くの論点があり、生半可なことでは動けないと思われる。そもそも国民の過半数が、問題があるといわれながらも漫然と自民党を支持し続けている背景には、あまり変化を望まないからということが挙げられており、その点でも、憲法改正に国民が容易になびくとは考えにくい。

 旧統一教会については、信徒による過剰な献金などが問題視されており、安倍さんの襲撃もそれが原因ではと言われているが、一方で日本では信教の自由や内心の自由は保障されており、その切り分けが必要となってくる。この二つを混同した議論には、注意が必要だ。
 ただ、日本では、欧米でのキリスト教、中東でのイスラム教、東南アジアでの仏教などのように、宗教が日常生活の中に溶け込んでいるわけではない。「宗教と政治の話はするな」とよく言われるように、自らの信仰に対してオープンにすることもタブー視されている。以前私は、日本で信仰されているのは、天皇家を信仰の対象とするものと、「世間」という宗教であると書いたが、ともに宗教法人格を持っていなければ、その対象に対して何かをするということもない。したがって、これらの何かの行動を伴う宗教に対する忌避感は、おそらく他の外国人には理解されないことだろう。外国からもたらされたクリスマスという儀式についても、日本では見事に無宗教化することに成功した。
 そもそも日本には古来より「神道」という独自の宗教がある。他の宗教と違って、教祖もいなければ経典もない。その後、日本では教祖も経典もある、他の宗教と同じ仏教が伝来し、かつては神仏習合なども行われていたが、明治期になってから神仏分離が図られ、現在に至っている。また、室町期に日本に伝来したキリスト教も、豊臣徳川政権期に、その教義がというよりも外国への脅威を取り除くことが目的で禁止されて以降、明治期以後に勢力が復活することもなかった。アジアでも韓国やフィリピンなど、国民の多くがキリスト教を信仰している国もある(旧統一教会はキリスト教がベースとなっている)が、日本では成功しなかった。日本人の独特の宗教観は、今回の旧統一教会をめぐる世論にも大きく影響している。

 過剰な義務を課して、その本人や家族に負担をかけるのは、宗教に限らず規制されなければならない。しかし、それが宗教という免罪符を得てしまうと、うかつに手が出せない現状がある。ここは、宗教であるかそうでないかにかかわらず、反社会的な活動をしている団体には、何らかの制裁が与えられるべきである。
 一方で、人間は一人では生きていけない存在である。人間が、自分一人だけの力で、または人間だけの力で生きていけるというのは、思い上がりであるとも言える。科学が万能だと信じている理系の人にはわからないかもしれないが、現代の科学では説明できないことが宗教の世界では起こり、それに魅了されてその宗教の世界に入るという人がいるのも否定できない。ただ、その境地に至るには、科学的な事実や思考が今ほど発展していなかったじだいだから支持されてきたというのもあるし、何千年も時間をかけて教義が完成されてきたという面もあると思う。最近できた思想であればあるほど、分かりやすい成果を求めたり、底の浅い教義に終始する傾向がみられる。
 宗教に限った話ではないが、何か理不尽な扱いを受けたときは、脱退の自由も同時に認められなければならない。それだけのことである。

 今回問題となっているのは、宗教と政治の問題、そして過剰な責務を負わされた信徒と、巻き込まれた家族をいかにして守るかという問題であって、間違っても、あらゆる宗教に対する迫害や差別につながってはならないと、
生まれながらの某宗教の信徒(コロナになってから活動してないけど)としては強く思う。


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