我々がした選択は、我々自身がしたかった選択だろうか

 私はいつも考える。自分の選択は、自由の下に自分がしたかった選択だったか、を。

 我々を取り巻く環境は多様で魅力的なコンテンツ、同調的で不特定多数で有耶無耶で時には矛盾する雰囲気と植え付けられた先入観、一見たくさんありそうで実はほとんど選べない選択肢に囲まれている。

 生まれた頃は新聞やチラシ、テレビや本といった媒体でしか手に入れることができなかったスーパーマーケットやデパート、遊園地でのイベント情報、遠い場所にある景色と新しく建てられた建造物。今ではインターネットを使えば手に入れられない情報などないと思うくらい様々な情報であふれている。これらの情報は色とりどりで、内容も多様で、時には触れられないけれども視覚的には実物と同じものを提示する。でもこれらの情報は、我々が手に取りやすいように装飾され、誇大的に拡張され、我々の意志とは関係なしに意識を引っ張る。意識がそれを必要と勘違いすると意志は歪められ、ついには選んでしまう。それが本当に選びたかったものなのかという問いを置いてけぼりにして。

 人に嫌われる、仲間外れにされるのが怖い。おそらく半分くらいの人がそう思っている。そう思っているからこそ、学校でも、職場でも、それ以外の集まりでも、言いたいことが言えない。もしくは言いたくないことを言ってしまう。さらに拍車をかけるように「人に迷惑をかけるな」という、いつどこで聞いたか忘れてしまうくらいの昔に、そう教わった言葉が、自分をできるだけ、今所属している集団の、注目されない「誰か」にさせようと意識に働きかける。でもその一方で、試験でも、成績でも、能力でも、何らかのパラメータを誰かと比較し、競わせ、「誰よりも上にいなさい」、「1位でありなさい」と命令し圧力をかけ、何らかのパラメータで上位になった「強者」と下位になった「弱者」に分けてしまう。そして、少しでも注目されない「誰か」になれなかった時、「弱者」であればあるほど、抜き出てしまったパラメータを材料に、誰も何も言えない、舵取りができない「強者」の集団に攻撃されてしまう、「我々とパラメータの異なるところがあるあなたは、我々に迷惑をかけている」と。それが嫌で、恐怖で仕方がなくて、意識が意志をねじ曲げて選択をする。自分の意志を殺しても。

 我々は自由だと言われているけれど、保証されている「自由」は想像よりもずっと範囲が狭い。日本で保証されている自由には、思想、学問、表現、居住、職業選択といった様々なものがある。けれど一つ一つ覗いてみると。学問では介入、外部からの干渉を受け付けないとあるけれど、子供の頃であれば親、指導講師、同級、同学生から「あれやれ、これやれ」と言われ、大人になったらスポンサー、指導教官、所属している組織から「これは儲からないからやるな」、「この方法で結果を出せ」、「失敗という結果は受け入れられない」と言われる。また、学問をしたいと思った時には、小、中、高等学校はもう遠く、大学で勉強するにはお金と時間と基礎知識が足りない。独学で勉強するのも、ガイドラインを探すところから始まり、そして途方に暮れる。表現の自由では、攻撃的で害意しか持たない言葉は制限されないけれど、何か意思を表明し、自分の考えを、感情を表現すると、「それは間違いだ」と否定され、それを集団で押さえつけようとする。その抑圧は「どんな理由で否定するのか」を示さずに。居住では、思い出、利便性、何かしらの理由で住み続けたいけど、そのためにはお金と仕事と足、それに、そこに居続けられるだけの運が要る。一度でもそれを失うと、もうそこには戻れない。職業選択の自由では、業種と会社は選べるけれど、仕事とキャリアは選べない。選べた業種と会社も、年を重ねると選べなくなってくる。そして運が悪ければ、どんな理由で働いているかなど関係なく、会社を辞めるようにと圧力をかけてくる。これがまだ解雇通告を受けるならばいい。それは会社を運営している人の選択なのだから。そうではなく、逃げ道も否定することもできないのに、自己都合退職という形で、我々自身が辞めるという選択をするように迫る。一方、定年まで働き続けることができたけど、定年とされる年齢は延び、年金は減り、そして、さらに低賃金で働き続けろと言われる。人生の半分以上に関係する選択を、我々のほとんどは自分の意志で決めることはできない。そこに自由はあるのだろうか。

 このように我々ができる選択は、我々が思っている以上に狭く、周囲からの影響を受け、意志を蔑ろにする。しかし選んでしまった選択に対して、その選択が本意か否かにかかわらず、「自己責任」と突き放される。こんな状態では、答えがわかったら手を挙げろと言われても、自主性を持てと言われても、ましてや重大な選択を行えと言われても、誰も彼も選択などできやしない。どの選択も期待値は「絶望」の2文字だと経験として、いや常識として、認識されているからだろう。

 これからますます新しいものは増え、環境は古くなり、人口が減り、我々が選択するには難しいものが生まれると考えている。だからだろうか。今はただ「選択」というものが自由に、誰にも、どんな圧力にも邪魔されず、その結果がどういったものになるのか、どんな考え方で選択すればいいのか勉強できる何かが必要なのだと感じる。時間にも、場所にも、年齢にも関係なく享受できる何かが。それまでは気楽に、ずっと考えよう。自分の選択は、自由の下に自分がしたかった選択だっただろうか。

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