小説 ちんちん短歌 第22話 『サブカル貴族』
「さっきのあれ、『ムシオ』って子が話してくれたものだよね」
高橋文選の口から「ムシオ」という言葉が出た時、何かすごく、嫌な感じがした。
「正しくは、ムシマルと言います。面倒なので誰もそう呼びませんでしたが」
「……へえ」
笑いながら、よっこらしょ立ちする高橋氏。
「「ムシマル」の名の縁もある。先の歌は我が祖父、高橋虫麻呂の作とする。そう記憶してくれたまえ、短歌奴隷君」
高橋虫麻呂――。
ひとつ前の世代の著名な歌人――特に長歌の名手として知られている。
この男は、その孫だったのか。
高橋虫麻呂は、歌人としての声名は山部赤人、山上憶良、大伴旅人といった、歴代の一流歌人の比較して、2ランクくらい下の評価を受けている存在だった。
なぜか。
官位が低いからだ。
高橋虫麻呂は従六位だった。
そして、貴族社会の中では「従五位未満は正直平民」「生きていても死んでいても影響を及ぼさない者」「従五位未満は陛下が目にしたらちょっと汚れる」「ごめん従五位未満とは話せないんだ」「従五位未満の任地ってどうせ東国なんでしょ?」「従五位未満が官舎に出仕したら上君がチンパンジーでした」といった感じのいじりを受ける。
その孫だという高橋文選。
彼も従六位であるらしい。さっきそう名乗った。
平民から見れば貴族だが、貴族からすれば馬鹿にされるランク。そんな奴が、自分の娘の輿に妙に力の入った細工してあるものを使っているのも、今から思うとかなりダサいんじゃないかと思った、建。
「いやね、私、倭歌は作ってないって事にしてるんですよ。だから、作った倭歌はだいたいおじいちゃんの作って事にしてんの」
短歌、長歌をわざわざ「倭歌(ヤマトウタ)」って言う奴か、と、建はちょっと引いていた。
現代でいえば、邦画を「国内映画」という微妙な言い回しする奴っていうか。
なんていうか、クソサブカル貴族みてえだなあ、と、なんかそう思った。
「まあねえ、今、短歌ブームだし、作らないでもないんだけど。まあ結局、倭歌って……ねえ……や、大伴卿のところで短歌奴隷やってる方に言うのもナンだけど、申し訳ないけど、……正直、第二芸術でしょ。作品そのものより、誰が歌ってんのかみたいなとこにフォーカス当たっちゃってるとか」
歪んだ笑いをする高橋文選。
今、ヤマトは短歌ブームではある。一方、長歌は、そんなにブームじゃない。
彼の祖父の虫麻呂は、「市井に取材し、その取材した話を長歌にする」名手と言われていた。しかし虫麻呂の、短歌の評価はほとんど聞かない。
たぶん、虫麻呂は、まあまあいい短歌も作っていた。でも同期の山部赤人のように、貴族のランクを覆すほど、極端に面白い物は作れなかったのだろう。
同期に比べて、才能が無かったからだ。
それは、虫麻呂自身、才能があるからわかる。中途半端に、能力があるからわかる。
だから、取材に逃げた。
取材というイクスキューズがあって、素材の面白さに、技法をのっけたところに、虫麻呂の歌の評価があった。
だから、歌そのものは、きっと面白くはない。少なくとも、虫麻呂は楽しんで作っていなかった……そうなんじゃないかな……と、建は孫の文選の態度を見て思ってしまった。
「結局誰でも作れるんだって。倭歌なんて。ただヤマト語を5音7音に当てはめればいいだけなんだから。クズでも作れる。作れちゃうんだよ。……漢詩と違って」
文選は自虐する時、ちんちんを左手で抑える。
死んだムシオは作れなかったけど? 短歌を。と、建は思う。
短歌を作る前に殺された。お前に、殺された。
そんなあんたが、歌を「クズでも作れる」って口にするんだ。
「結局、さ、ヤマト民の教養が低いから、短歌ってウケてるだけなんだよね。建さんも短歌暗記してて分かるでしょ。都中心に、貴族中心に、どんどん内輪ウケになってる」
文選は帰り支度をするために立ち上がったのに、なかなか帰らない。
建という、歌の分かる会話相手が久々なのだろう。
だからと言って建は別に相槌などは打っていない。
「滅びるね。倭歌は。予言するよ。
倭歌は滅びる。消える。
持って10年でしょ。なんの発展性もない、倭歌なんて。何一つつまんないもの。私、倭歌で感動した事、いっさい無いもの。
建さんだって、わかるでしょ?」
別に相槌は打たない。
文選は、土壁に寄りかかり、下を向き、腕を組み、「でへっ」と自虐笑いする。
「結局、ヤマトに文学なんて無理なんだよ。5音7音にしても、結局漢土 (中国)の五言詩、七言詩の猿真似でしょ? 何の理屈もなく5と7を取り入れて、肝である”展開”を理解してないじゃない。
建さん、倭歌で、ちゃんと漢詩みたいに"展開"してる歌、聞いたことある? 1つの歌の種から世界が広がる感覚になるの、倭歌にないよね?
だって、倭歌って結局、ただ音のいい5音と7音の組み合わせで、せいぜい景の切り取りが限界で、それで満足してる。それで人が感動すると思ってんだよ。猿でもできるからブームになってるだけ。猿でもわかるからブームになってるだけ。
醜悪。醜悪なんだよ、倭歌ってさあ」
文選はぺらぺらと、もう建に向かってしゃべっていなかった。
建の向こう側にある、無に向かって、闇に向かってしゃべっている。
「そのうえ、ヤマト語には文法がないじゃない。適当じゃない。匂わせと察しだけでコミュニケーションが通っちゃう不完全な蛮地の言語でしょ?
せめて、もうさあ、国語は漢語にすべきだと思うんだよ。漢語をヤマト語にして庶民にも教育して、ヤマト語は駆逐してかないと、滅びるね。もう終わりだよ、こんな国。早いところ、唐の属国になればいいんだよ。
みんな死ねばいいんだよ。
みんな死ねばいい。
みんな死ね。
生きるな、こんな国で。ロクな文化のない国で。くだらない。恥ずかしい。
この国の詩歌って、詩歌の面白さそのものじゃなくて、結局官位か。身内で認知されている「キャラ」がどんな人生送ってるかで、そいつがどんなタイミングでその詩歌を歌ったかってだけで評価されて。
本当に、心の底からつまんないんだよ、ヤマトは、今。
白村江で負けたクニが、何を偉そうに文化ヅラして詩歌作ってんだ。
白村江で負けて東国から碌な路銀も払わず徴兵して、そいつらにも詩歌歌わせてんだってな、朝廷のバカ共は。
白村江で負けた時点で終わってんだよこの国は!
さっさと唐に侵略されて死ね、皆殺しにされろ。言葉を奪われろ。この国の文化は全部消えろ。醜悪だ。額田王の詩歌以外全部消えちまえ。
震災や疫病に対して大仏立てるしか政策のない最低の国。
周公、蕭何は出てこないんだよ、氏族で要職が固められたこの国はさあ。
今すぐ、みんな、死ね。
面白くないやつは、今すぐみんな死ね。
……ねえ、そう思うよね、ね、建さん?」
口の中の空気を全部吐き出して、文選は語り終える。
みんな死ね、とは、建は思わない。
すくなくとも、ムシオは死ぬべきではなかった。つまらない、うんこ臭い奴だったけど、死ぬべきではなかった。
だって、短歌を作り途中だったから。
短歌を作り途中の人間を殺していい法なんて、この世にはない。
だが、建は黙っていた。
こいつにかける言葉は何もない。
高橋文選はつまらない男だ。面白い男ではない。今、こいつは、自分で自分に死ねと言っている。
でも彼は、高橋文選は、高橋虫麻呂は、詩歌を作った。
建は、記録媒体だ。
記録媒体は、記録するためにある。先ほどの長歌と、反歌を、一言一句覚え、それを主君の大伴家持に伝えるだけの命だ。
それをやりきるまでは、絶対に死なない。
だから、俺は生きる。死なない。みんな死なない。
気がつけば、文選は壁を背にしてしゃがみこんでいた。
身をかがめ、腕を足の前で組み、顔をうずめていた。
「……。建さん、川渡しの男たちがさあ、なんか歌、歌ってたでしょう。」
「……歌ってましたっけ」
「水は飲ますな、オイ川の水を馬に、水は寒くて、馬の骨も、カンカチボウ……」
「ああ」
あれか。あの何の意味のないつまんない歌。
「ヤンマー、ヤンマー、ホーリンリン、リンリン三千里」
「……あれは、ただの囃子歌ですよ。何の意味もない」
すると文選はすっくと立ちあがった。
「飲馬長城窟、水寒傷馬骨」(馬に長城の泉を飲ませると、水の寒さに馬の骨も凍える)
「……アッ」
文選は、良く通る声で漢詩を朗読した。そしてゆっくりと歩きだし、建の元から去って、後ろの暗闇へ消えていく。
「往謂長城吏、慎莫稽留太原卒。官作自有程、挙築諧汝声……」
その歌い方は、静かだったが、発音一つ一つにこだわりが入っているのが察せられた。
建は、もう漢土の言葉から縁が離れてしまっていて、その意味を取るのは難しかったが、
「男児寧当格闘死(だんしむしろ、まさにかくとうしてしすべし)」
ここは分かった。
はっきりと分かった。
「男だったら、殺し合いして死ねばいい」
建にはない感情だが、ないのに、伝わる。共感はできないのに、すごくわかる。
歌だ。歌の力。漢詩の力だ。
文選は、虫麻呂は、殺し合いをして死にたかった。
でも、できないんだ。なぜなら逃げるから。
中の下くらいの才能があって、それゆえ、自分のつまらなさに気づいて、技巧に逃げた中くらいの作品を作って、逃げて、だから死なない。
でも、死なないから、作品だけは残る。
「何能怫鬱築長城、長城何連連……連連(リンリン)三千里……」
陳琳の作による『飲馬長城窟行』である。
これは今から500年ほど前の漢詩だ。
その古漢詩は、学のない、死んだほうがいい、死んでも誰も悲しまない川渡しの男たちにすら伝わって、口にされ、体を温めていた。そして文選はそれが古漢詩であることを見抜いていた。
サブカル貴族として、高橋文選は本当に本当に詩が好きで、文化が好きで、そして同時にすべてが大嫌いだったのだろう。
「男児寧当格闘死。」
その心は、うっすらと伝わる。
倭歌はどうか。
500年後の未来、千年後の未来、この時代の短歌は、誰かを励ましたり、生かしたりするだろうか。
建にはわからない。
高橋文選の言う通り、この時代の短歌、和歌は、つまらないのかもしれない。漢詩のように、一つの歌題から展開し、世界を包み込むようなスペクタクルはない。
滅びる、のかもしれない。
でも建は生きようと思った。生きて、脳内にある短歌たち、歌たちを、滅ぼさない。
ムシオのように、死んだら歌は消えてしまう。歌を作りかけたまま死んでしまうのは、何よりやってはいけないことだと思った。
絶対に死なない。
高橋文選の、高橋虫麻呂の作としたあの長歌も、抱えたまま死ねない。
絶対に後世に託し、その評価をゆだねなければならない、途絶えさせてはいけない、とそう思った。
しばらくして、高橋文選とその仲人は、小屋の闇の奥に消えた。
夢幻のようだ、と思った。
建はしばらくその苫の粗い小屋の中で、高橋文選――虫麻呂の歌を心に定着させるため、繰り返し反復していた。
そのさなか、ふと「きらきらし」という言葉を口にするとき、うんこ臭いムシオの醜悪な、しかし楽しい笑顔が浮かぶ。
文選の使う「きらきらし」と、ムシオの口にした「きらきらし」は、言葉の上では同じだが、まったく違うと思った。
その違いが、千年後の未来の人に、はたして伝わるのかどうか。
(つづく)
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