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小説 ちんちん短歌 第14話『地獄②』
家の中の、全身灰まみれで痛そうな人が怖いことを言っているので恐ろしくなり、建はそこから出る。
こう、もっと、ガッとはっきりと怖いことが起きてくれれば、もっとちゃんと怖がって、ワーって言ったり泣いたりできるのに、とても中途半端で、泣くこともできず倒れることもできない。つらがりきれない。
たしかに全身、だるい。つらいはつらい。喉がイガイガして気持ち悪いし、落ちてきたときに土壁に触れた部分がじんじんして地味に痛い。
だが、あの家の中で、陶片で全身かきむしりながら呪詛をはいている男ほどは、つらくないっていうか。
てか「陶片」でかきむしってる感じがリアルで、皮膚のあの感じ、経験したことないけどなんかわかる。きっととてもつらいんだよなあと思い、吐き気がする。するけど、吐くほどのことではない。
ここよりも下にもっと地獄があって、その下ももっと地獄で、きりがなくて。
そして、おそらく自分はこの先、もっと良くないことが起き、ちょっとずづつ下に、どんどん下になって、さっきまで見ていた、自分よりつらい人にいつの間にかなって、2度と上には這いあがれないんだろうなという感じ。それが、予感というか、わかっちゃうこと。
とてもつらい。
地獄だと思った。
これが地獄か。
……なんで地獄にいるんだっけ。落とされたんだっけ。地獄といっても、極端に悪くもなくて、ただもともとの場所より、2回分くらい悪いくらいの世界だし、きっと、自分を上から見てるような超越的な存在にとっては、たいして変わんないくらいのつらさって思われるんだろうな。それがつらいんだけどな、当事者としては。
喉の渇きさえ何とかなれば、と思いながら、ただ歩いている。
することがない。だから歩く。歩けば何とかなるかもしれないと思って、荒野。
でも、どこにも行く場所がない。行く当てがない。水が欲しい。水があれば。地面はぬかるみ。七千頭の死んだ羊が倒れて、雨にでも降られたのだろう、泥濘。
短歌。
歌さえ歌えれば。
頭の中の歌だけは奪われていない。それが面倒くさい。希望が中途半端にあるのがほんとに、つらいんだよ。喉がイガイガして歌えない、全身つらくて頭の中で覚えた短歌を思い出すのに全然集中できない。面倒くさい。何もできない。
「そうなんですか」
建の目の前に胡人(ペルシャ系ヨーロッパ人)がいた。
衣服は純白の一反木綿を器用に巻き付けて刺繡の入った帯で胴体を縛るという、いい感じのものを着ている。頭に、おしゃれのつもりなのか、イバラを環状にしたものを被っていて、だが、手のひらや足の甲をよく見れば穴が開いている。刑罰を受けた事がある人のようだ。
胡人は一匹の、白い4つ足の獣――それは後に山羊という、建も見たことのない動物だと判る――を引き連れ、手には長い杖を持っていた。
盲なのか、目をつぶっている。
「そうなんですか、というと?」
建は訝しがって尋ねる。
「あー、あの、あなた喉が渇いて、つらい、みたい、なのかなー? 的な?」
胡人はへらへら笑い、少し手を広げる。武器持ってませんよアピールだ。
「……それだけでは、ない、と思うんですけど」
すると胡人は杖を持っていない左手で自分のアゴ髭を触れ、優しく微笑む。
あ、この顔。こういう雰囲気。
こういう仏像を、幼少期、百済で見たことがある。ミロクという、半跏思惟の像にも似てると思ったんだ、建。
「この近くに、ヨブという人が苦しんでいるはずなのですが、ご存じですかね」
胡人は盲人の杖でトントンと地面を探っている。
その杖の先が、建の足元に来る。
「私は……ヨブじゃなくて、建……公孫建と言いまして、えーと」
仁義を切るべきなのか、と少し迷う。
盲で、自分より何も持ってなさそうな、山羊を引き連れた胡人から、自分が身分を明かしてへりくだり、何か世話してもらえるだろうか。
「あー、……しゃあ、ヨブに出会いましたか? この近くに居るのですが」
あれは、ヨブなのか。
「かきむしっている人がいました、体中、あの、家の、あそこの。ヨブさん? あなたの知り合いの方……?」
「どうでしたか」
どう?
わけのわからない質問の胡人。とんとんとん、と杖はリズムを地面に刻む。
「つらそうでした?」
「や、そりゃあ……あの、全身かゆそうで、灰の中に入ってて。……ああいう時、灰の中に入ってた方がかゆみが抑えられるものなのかな」
胡人は、ああー、ああー、と聞いてうなづいている。
「彼が今、何をしていて、どんな話をするのかを、見聞きしに来たんです。私」
と微笑むと、胡人は適当な石に座る。
すると、彼の連れてきた山羊がヨタヨタやってくると、山羊の喉をくくくとくすぐりあやし、手から(どこから?)黒石で出来た杯を取り出すと、胡人は山羊の乳を搾る。
山羊は悶えたような声をあげると、白く白濁したさらさらとした液が、黒い石の杯に入っていく。
「どうぞ」
と、建は杯を勧められる。
飲み物だ。
動物の乳を飲んだ経験がなく少し面食らったが、今はとにかく喉が渇いている。おそるおそる口につける。
獣臭いが、喉にやわらかに染みていく心地がする。じんわり味わっていると、胡人の顔が「ああ、飲んじゃいましたね」みたいな、すごい顔で微笑んでいる。なにか、まずかっただろうか。
「……ヨブは、豊かな家の者で、よきひとでした。ところが最近、家畜をすべて失い、家族を失い、ついには病を得たとのこと」
へー、と思いつつ、建は杯を返す。
胡人、みれば、何か吹き出しそうな顔をしている。不幸話を笑っちゃうタイプの人なのか。胡人はもうひとしぼり、山羊の乳を搾り杯に満たし、自分もそれを啜る。
「私は、そのヨブの様子を見聞きし、ある人に伝えようと思っています」
「ある人?」
「ここより西方にお住まいになられている、ある貧しい羊飼いの男にです」
「……その人も、地獄に住んでる、……んですか」
「そうですねぇ」
胡人も杯を干す。
山羊はトテトテとこの場から離れ、その辺に生えた黒く不味そうな草を食べている。
つらい人が、どんな風なのか、何を想っているのか。
この胡人はそれらを取材して、おなじくつらい人に聞かせてあげるっていう、それって、なんか、短歌奴隷っぽいというか、建と同じような事をしているのかなあと思った。や、ちょっと違うのか。
建は少しだけこの胡人に向き直ると、胡人は反応して(目が見えないっぽいのに?)こちらを向いてほほえんだ。
「私は、地を行いきめぐり、あちらこちら歩いている者です。あなたも、未知の詩歌を得るため地をいきめぐり、あちらこちら歩いている、と聞いてます」
なぜ、話してもないことを知っているんだろう。
「それで、詩歌――あなたが都で見聞きした以外の、新たな短歌は、地にありましたか?」
なかった。
旅立って、まだ日が浅いというのもあるし、たいして探してはいないけど、無かったんだ。どこにも。
都を少し出ただけでも、そもそも人に出会わないし、逢ったとしても、詩歌の話題なんか、出ることはない。
流れ着いた山間の集落でも、都落ちした元貴族のキイコ以外に詩歌を知っている者はいなかった。
「地には疫病と飢饉、そしていくさと、その徴発で、人々は貧困の中に居ます。何一つ良いことはありません。それは、天も同じこと」
天?
「ヨブは働き者で、誰も呪わず、悪を遠ざけて生きてきました。良き人です。良き人でした。天の人でした。」
建はだんだん、この盲の男が怖くなってきた。
盲や胡人を見慣れていないというのもあるけど。何を考えているのか。何をしゃべっているのか。その顔からは読めない。
「天の人が天たらしめているものは、なんなのでしょうね。豊かさなのでしょうか。健康なのでしょうか。先祖から受け継ぐ資質なのでしょうか」
詩歌ではないか、と建は思った。
詩歌っていうか、言葉か。
それは自分が短歌奴隷だからそう思うのか。9歳で奴隷となり、たまたまそれまで貴族教育を受け、いくばくかの詩歌の知識があって大伴家持に繋がれ、極端に悲惨な奴隷業をやらずに、韓服を纏えている。
それもただ、建には言葉や詩歌があったからだ。
だが旅をして都を出たとたん、その詩歌が全く通じない。言葉が、わかるのに通じない。A面は通ってもB面で止まる。理解されない。建を犯そうとした武士には、言葉は全く無力だったし。
そして、言葉の世界は、ちんちんについて、自分に隣接している私的な領域について、何一つフォローがない。ちんちんのつらさに、ちんちんを見せられてつらかったこと、入れられそうになって怖かったこと。ちんちんが自分にもついている事。そのことについて、短歌は、無視している。
そこに、建はちょっとづつ、疑念というか……やる気か。
そうか、建は、やる気をなくしていたんだ。
「わたしは、ヨブがこれから何をし、何を想い、どうなるのか。神を呪うか、呪う以前に朽ちてしまうか。それを、見るのが、とても、楽しみ。……それを、あの貧しい羊飼いの男に話して聞かせるのが、今からとても、楽しみ。とても、楽しみ……」
胡人はよだれを垂らしていた。
胡人の背中には、うっすらと、半透明のうつくしい6枚の羽根のようなものが建には見えた。
やはり、人ならざる者だったっぽい。
だが建は、別にもう、逃げようとか、殺そうとかいう力もなくて。
邪気を払う真言も旅立つ前に習っていた気もするけど、西洋のやばいやつに東洋の文言が効くのかどうか。そもそも、ヤマトの言葉なんて、マイナー中のマイナーだろう。胡の魔物に通じるのかな。効くのかな、なんて。
たぶん何の役にも立たないだろうなあ。
何が、「歌は、力を入れずしてあめつちを動かす」、だ。
建はやる気なく、石の上に座り続けていて、ぼんやりとしていた。
気が付けばのどの痛みが、たかが山羊の乳を飲んだだけで、引いていた。体もぼんやりとしているが、休んだので、ベストとは言えないけど、まあまあな感じになっている。
遠く、ヨブの石の家の方に、六角灯篭を手にした3つの人影が見える。
「あれは、テマン人エリパズ、シュヒ人ビルダデ、そしてナアマ人ゾパルか。……どういう差配だろうねえ。エリパズは聖職に身を置くもの。さては、お告げでも受けたか。……彼が何を言うか。ヨブはなんて答えるだろう。私はすそれらをすべて見聞きして、そのすべてを伝えなければ、伝えなければ」
胡人はゆらゆらと、ヨブの家の方へ去っていく。
その顔に、わかりやすく悪意があったなあ。
そして、悪意があると、やる気がでるのかもなあ。いきいきしていたなあ。きれいだったなあ。
建は胡人の背中を見送くる。その背中の6枚羽は美しく、良いなあと思った。その後を、とてとて山羊が付いていく。草が風になびいている。死んでいる羊から、肉の腐った匂いが薫る。
いい風景だ。
なのに、頭の中に、なんの短歌も浮かばないなあと思った。
何もない。何のやる気もないなあ。そして、頭の中に短歌が浮かばない、という事に、慣れちゃった。
ああ、地獄に慣れちゃったんだなあ、と思った。
主はサタンに言いわれた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答たえて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
(つづく)
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