黄色いひまわり
アート・エデュケーターの宮本由紀さんの「ゴッホとゴーギャン」について胸を打たれた記事がありました。
ゴーギャンを尊敬していたゴッホは、ゴーギャンをアルルの住まいに招き、創作のための共同生活ができればと願っていました。1888年、その願いが叶う日がやってきました。ゴッホは大喜びで客室を黄色いひまわりの絵で飾ったといいます。しかしながら、お互いの創作に対する主義主張が食い違い、激しい気性がぶつかりあい、ゴッホが夢に描いていた生活は終止符をうつことになります。ゴッホが一時的な錯乱状態に陥り、自ら耳を切りとろうとしたのは、この時のことでした。二人は再び会うことはありませんでしたが、文通は1890年にゴッホが自死するまで続いたそうです。
翌年、ゴーギャンはタヒチに渡り、終生、その地で過ごすことになります。ゴッホの死から10年あまり過ぎたころ、ゴーギャンはひまわりの育たない地にフランスからひまわりの種を取り寄せます。そして、ひまわりの連作を描いたそうです。
さらに宮本さんによれば、後にゴーギャンはアルルの客室に飾られたひまわりの絵に関して次にように書き残しているそうです。「私の部屋の黄色いカーテン越しに差し込む黄色い太陽の光が、全ての花を金色に照らし、朝、ベッドで目覚めると、まるでとてもよい香りがするかのように感じられる」。
宮本さんは「ゴッホが精神的に破綻した画家というのは虚構で、彼は実直で、真摯で、思いやりあふれる、非常に繊細な人でした。」といいます。さらに「他者とのコミュニケーションにおける不器用さは彼の弱点でしたが、友人づくりを諦めはしませんでした」と続けています。そして「ゴッホはゴーギャンを強く愛し、尊敬していました。今度はゴーギャンから大切な友人に愛情と敬意を返す番だったのかもしれません」と締めくくっています。