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53.言語の得意分野(2023/10/24)
授業の課題で、日本語や英語で読むこと・書くことについてのエッセイを書いた。日々英語で文章を書いたり読んだりすることが増えたことで、言語によって得意分野があるということを実感している。これはドミニク・チェンさんの「未来をつくる言葉」に書いてあったと記憶している。例えば、哲学的な話をするにはフランス語が向いている、ということが書かれていた。
これを読んだ時、ふーん、なるほど、と納得したつもりだったけれど、今はより実感を伴って理解できている。アカデミックな文章に向いているのは明らかに英語だと感じている。アカデミックな文章は、基本的に目的、方法、結果、結論の構造がしっかり定められていて、それぞれが複数の段落で構成されていて、さらに各段落もパラグラフライティングで構成されていて、入れ子構造のようになっている。こんなふうに構造が定められている文章を書く場合、英語のようにストレートに情報を伝えることに長けている言語の方が適していると感じる。アカデミックな文章は英語の方が書きやすい。
日本語では、言葉を重ねて重ねて、最後に結論を述べることが多い気がする。就活の面接やエントリーシートなど、わかりやすく話したり書いたりすることが求められる場面では、最初に結論を言いなさい、と口酸っぱく言われる。日本語は、結論に至るまでの課程を先に示して、徐々に核心に迫っていくような表現が得意な言語なんじゃないだろうか。結論を先に言うことを求められると、思考した順番をひっくり返す作業が必要になる。
聞く側からすれば、結論が先に来る方がわかりやすいと思うのかもしれないけれど、話す側からすれば、特に日本語話者の場合は結論から話すのって結構負荷が大きい気がする。なんでひっくり返すというそんな面倒なことを強要されなければならないのだと、怒りすら湧いてくるけれど、アカデミアとかビジネスとか、コミュニケーションにおいて結論が重要になる場面では必要なことなのだとは思う。例えば学術論文を読むとき、先に結論がわかっていた方がその論文を読むに値するかどうかすぐに判断できて効率的だし、後に続く説明の妥当性を確認しながら読むことができる。学術論文が日本語が得意とする流れで書かれていたとしたら、最後まで全部読んだのに結論が的外れだったり、結局何が言いたかったのかわからなかったりした時にがっかりすると思う。
私は「それで?結論は?結局何が言いたいの?」と言われるのが苦手だ。効率を求める場面や人からすれば、日本語的な論理構成は嫌われるのかもしれないけれど、私は日本語が好きだと感じる。もちろん母国語だからというのはあると思うけれど、ひとつひとつ思考を辿っていける感じがするし、結論を急ぎすぎずにじっくり深く考えるのには日本語が適しているんじゃないだろうか。物語とか詩は、英語よりも日本語が得意なフィールドなのかもしれないなと思う。